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「水鏡」仁明天皇(その2)

今年、慈覚じかく大師、如法経を書き給ひき。承和じようわ元年ぐわんねん正月しやうぐわつ二日、淳和院じゆんわゐん朝覲てうきんの行幸侍りき。弘法こうぼふ大師のまうし行ひ給ひしによりて、今年より後七日の御修法みしほ始まりしなり。三月さんぐわつ二十一日に、弘法大師、定に入り給ひにき。同じき四年六月十七日、慈覚大師、唐土もろこしへ渡り給ひき。同じき五年十二月じふにぐわつ十九日に仏名ぶつみやうは始まりしなり。この月に、小野たかむらを隠岐国へ流し遣はしき。その故は、度々唐土へ遣はさんとせしかども、身に病ひ侍る由など申して罷らざりしに合はせて、唐土へ遣はしける文の言葉の続きに惹かされて、世の為に良からぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨さが法皇ほふわう御覧じて、大きに怒り給ひて流し遣はさせ給ひしなり。同じき六年正月にぞ篁は隠岐へ罷りし。

わたのはら 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ 海士のつり舟

とは、この時に詠み侍りしなり。




この年(833)、慈覚大師(円仁ゑんにん。最澄に師事)が、如法経を書かれました。承和元年(834)正月二日には、淳和院(第五十三代淳和天皇の離宮)へ朝覲([年頭に、天皇が上皇または皇太后の御所に行幸すること])の行幸の供をしました。弘法大師(空海)の発願により、この年より後七日の御修法([正月八日からの七日間、天皇の安穏・国家の繁栄・五穀の豊作などを祈って、宮中の真言院で、東寺の長者を導師として行われた真言の秘法])が始められました。三月二十一日に、弘法大師が、入定([高僧の死])されました。同じ承和四年(837)六月十七日、慈覚大師が、唐土(唐)に渡りました。同じ承和五年(838)十二月十九日に仏名([仏名会ぶつみやうゑ]=[陰暦十二月十五日、後に十九日から三日間、宮中や諸国の寺院で仏名経を読んで三世諸仏の名号を唱え、その年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会])は始まりました(年中行事として定着したのがこの年らしい)。この月に、小野篁が隠岐国へ流されました。その訳は、度々唐土へ遣わそうとしましたが、病気などと申して入唐しなかった上に、唐土へ遣わそうとする言葉を風刺して、世のためにならないことなどを書いたので(『西道謡』という遣唐使の事業を風刺する漢詩を作ったらしい)、嵯峨法皇(第五十二代天皇)がこれをご覧になられて、たいそう怒られて流罪にされたのでした。同じ承和六年(839)正月に小野篁は隠岐へ流されました。

この大海原をいくつもの島を伝いながら、今わたしの乗った船が湊を出たことを、どうかわたしを知る人たちに知らせてほしい。海士の釣舟の者たちよ。

とは、この時に詠んだ歌なのです。


続く


by santalab | 2014-03-25 19:01 | 水鏡

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