平九郎判官申しけるは、「同じき宇治の大手に向かふべきを、宇治・勢多大勢に隔てられては、雑兵にこそ討ち合はんずれ。これより西、東寺は良き城郭なり。ここに立て籠り候はばや。駿河の守は淀の手なれば東寺を通らんずるに、よき軍して死なんと思ふぞ」と言ひければ、また「この儀しかるべし」とて、東寺に馳せ着き、内院には入らず。総門の外釘貫の中に陣を取る。高畑に控へたる三浦の介・佐原の次郎兵衛の尉・甥の又太郎・天野の左衛門・坂井の平次郎兵衛の尉・小幡の太郎・同じく弥平三など聞こゆる者ども、三百余騎喚いて駆く。
平九郎判官(三浦胤義)が申すには、「どうせなら宇治の大手([敵の正面を攻撃する軍勢])に向かいたいが、宇治・瀬田の大勢の敵に隔てられた以上、雑兵([身分の低い兵士])と討ち合うしかない。ここから西、東寺(現京都市南区九条町にある教王護国寺)はよい城郭だ。そこに立て籠もろう。駿河守(三浦義村。胤義の兄だが敵方)は淀(現京都市伏見区)の手であるから東寺を通るだろう、いい軍をして死のうと思う」と言うと、ほかの者たちも「そうしよう」と言って、東寺に急ぎ着いて、内院([寺院の敷地の奥の方にある建物])には入りませんでした。総門([外構えの大門])の外釘貫([柱やくいを立て並べて、横に貫=柱と柱をつなぐ材。を渡しただけの柵])の中に陣を取りました。高畑(現京都市南区吉祥院高畑町)に控えていた三浦介(三浦義村)・佐原次郎兵衛尉(佐原盛連)・甥の又太郎(佐原景義)・天野左衛門(天野政景)・坂井平次郎兵衛尉・小幡太郎・同じく弥平三など名に聞く者たち、三百騎余りが大声を上げて駆けて来ました。
(続く)