二位の法印尊長は、吉野十津川に逃げ籠りて、当時は搦め取られず。清水寺の法師鏡月房、その法師弟子常陸房、美濃の房三人搦め取らる。既に斬らんとするところに、「暫く助けさせ給へ。一首の愚詠を仕り候はばや」と申しければ、「これ程の隙は給はるべし」とて差し置くに、
勅なれば 命は捨てつ 武の 八十宇治川の 瀬には立たねど
二位法印尊長は、吉野の十津川(現奈良県吉野郡十津川村)に逃げ隠れて、その当時は捕えられませんでした。清水寺の法師鏡月房、鏡月房の弟子常陸房、美濃房の三人は捕えられました。既に斬られようとしましたが、鏡月房が「しばらく待ってください。一首の愚詠([自作の詩歌])を詠みたいのです」と申したので、「それほどの隙なら与えよう」と言って太刀を置いたので、
勅命ならば、命を捨てよう。「武州騎西郡八十」(『武州文書』。「市場之祭文」=市を開くにあたって神前で読み上げられた祭文)を立てることもできず、立つ瀬もないわたしではあるが。
(続く)