翁、皇子に申すやう、「いかなる所にか、この木は候ひけむ。怪しく麗しく、めでたきものにも」と申す。皇子、答へてのたまはく、「一昨々年の如月の十日頃に、難波より船に乗りて、海の中に出でて、行かむ方も知らず思えしかど、思ふことならで世の中に生きて何かせむと思ひしかば、ただ空しき風に任せて歩く。命死なばいかがはせむ。生きてあらむ限り、かく歩きて、蓬莱と云ふらむ山に遭ふやと海に漕ぎ漂ひ歩きて、我が国の内を離れて歩き罷りしに、ある時は、浪荒れつつ海の底にも入りぬべく、ある時には、風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなるもの出て来て、殺さむとしき。ある時には、来し方行く末も知らず、海に紛れむとしき。ある時には、糧尽きて、草の根を食ひ物としき。ある時は、言はむ方なくむくつけげなるもの来て、食ひかからむとしき。ある時には、海の貝を取りて、命を継ぐ。
おじいさんは、庫持の皇子に聞きました。「どんな所に、この木は生えておるのです。それにしても不思議で麗しく、みごとなものじゃ」と言いました。皇子が答えて言うには、「一昨々年の二月の十日頃に、難波から船に乗って、海に出ました。行く方向もわかっていませんでしたけれど、思うことをやりとげないで、世の中に生きて他に何かすることがあるだろうかと思って、ただ気分しだいの風に任せて進んだのです。死んでしまえば仕方ありません。生きている限りはとにかく船を進めて、いつか蓬莱と呼ばれる山に着くのではないと船を漕いだり漂ったりしながら進んだのです。日本から離れて進んで行くと、ある時は、浪が荒れて海の底に沈みそうになったり、ある時には、風を追って知らない国に吹き寄せられて、鬼のようなものが出てきて、わたしを殺そうとしたりしました。ある時には、来た方向も行く方向もわからなくなって、海で迷子になったり、ある時には、食糧が底をついて、草の根を食料とし、ある時は、言いようもないほど恐ろしいものが出てきて、わたしを食べようと襲いかかってきました。またある時には、海の貝を取って命を繋いだのです。
(続く)