門より入つて内を見るに、奇麗にして美を尽くせる仏殿あり。その額をば「理非断」とぞ書きたりける。僧をば旦過に置いて、山伏は内へ入りぬ。暫くあつて、前の山伏、内より螺鈿の匣に法華経を入れたるを持ち来たつて、「ただ今これに不思議の事あるべきにて候ふ。いかに恐しく思し召し候ふとも、息をも荒くせず、三業を静めてこの経を読誦候ふべし」と云つて、己は六の巻の紐を解いて寿量品を読み、僧には八の巻を与へて、普門品をぞ読ませける。僧何事にやと怪しく思ひながら山伏の云ふに任せて、口には経を誦し、心に妄想を払つて、寂々としてぞ居たりける。
僧が門を入って内を見れば、奇麗に美を尽くした仏殿がありました。その額には「理非断」と書いてありました。僧を旦過([宿泊所])に置いて、山伏は内へ入って行きました。しばらくして、山伏は、内より螺鈿([貝殻の真珠光を放つ部分を磨り平らにして細かく切り、文様の形に漆器や木地にはめこんで装飾するもの])の箱に法華経を入れたものを持って来て、「今からここで不思議なことが起こるぞ。どんなに恐しくとも、取り乱すことなく、三業([身・口・心による種々の行為])を静めてこの経を唱えていなさい」と言って、山伏は六の巻の紐を解いて寿量品(『法華経』二十八品中の第十六如来寿量品)を読み、僧には八の巻を与えて、普門品(普門品法華経の第二五品、すなわち『観世音菩薩普門品』=『観音経』)を読ませました。僧は何が起こることかと不思議に思いながら山伏の言う通り、口には経を誦し、心に妄想を払って、寂々([無心])にしていました。
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続く)