夜痛く更けて、「誰か候ふ」と召されければ、「吉田の中納言冬房候ふ」とて御前に候す。主上席を近づけて仰せありけるは、「資朝・俊基が捕らはれし後、東風なほいまだ静かならず、中夏常に危きを踏む。この上にまたいかなる沙汰をか致さんずらんと、叡慮更に不穏。如何して先づ東夷を鎮むべき謀あらん」と、勅問ありければ、冬房謹んで申しけるは、「資朝・俊基が白状ありとも承り候はねば、武臣この上の沙汰には及ばじと存じ候へども、この頃東夷の振る舞ひ、楚忽の義多く候へば、御油断あるまじきにて候ふ。先づ告文一紙を下されて、相摸入道が怒りを静め候はばや」と申されければ、主上げにもとや思し召されけん、「さらばやがて冬房書け」と仰せありければ、すなはち御前にして草案をして、これを奏覧す。君しばらく叡覧あつて、御涙の告文にはらはらとかかりけるを、御袖にて押し拭はせ給へば、御前に候ひける老臣、皆悲啼を含まぬはなかりけり。
夜がすっかり更けて、後醍醐天皇が「誰かおるか」と呼ばれたので、「吉田中納言冬房(吉田冬房)がおります」と申して御前に参りました。主上(後醍醐天皇)は席を近づけて申すには、「資朝(日野資朝)・俊基(日野俊基)が捕らわれてより、東風はいまだ収まらず、中夏([都])は常に危うい。この上またどのような沙汰があるかと思えば、わたしの心は穏やかでない。どうにかして東夷([無骨で粗野な東国武士])の横暴を鎮めようと思うが何か妙案はないか」と、勅問([天子の質問])されたので、冬房(吉田冬房)は畏まって申すには、「資朝・俊基が謀反を白状したとは聞いておりません、武臣はこれ以上の沙汰には及ぶことはないと思いますが、この頃の東夷の振る舞いは、楚忽([唐突でぶしつけなこと])なところが多くありますので、油断なさらないことです。まず告文([自分の言動に虚偽のないことを、神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書])を
一枚下されて、相模入道(北条高時)の怒りを静められてはいかがでしょう」と申すと、主上(後醍醐天皇)もなるほどと思われて、「ならばすぐに冬房(吉田冬房)が書け」と命じたので、後醍醐天皇の御前で草案([下書き])して、これを奏覧しました。君(後醍醐天皇)はしばらく叡覧して、涙が告文にはらはらと零れ落ちるのを、袖で押し拭ったので、御前の老臣は、皆泣き声を上げて泣きました。
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続く)