修明門院一つ御車にて、鳥羽殿へ御幸なる。御車を大床の際に差し寄せられたり。一院、簾引かさせ給ひて、御顔ばかり差し出ださせ給ひて、御手をもて「帰らせ給へ」と仰がせ給ふ。両女院御目も暮れ絶え入りさせ給ふも理なり。御車の内の御嘆き、申すも中々愚かなり。
七条院(藤原殖子。後鳥羽院の母)と修明門院(藤原重子。後鳥羽院の后)は一つの車で、鳥羽殿(現京都市伏見区鳥羽にあった離宮)に出かけました。車を大床([寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床])の際まで寄せられました。一院(後鳥羽院)は簾を上げさせて、顔だけを出して、手を振って修明門院に「よくぞ戻った」と合図しました。両女院(七条院と修明門院)は目が暮れ気を失うばかりになるのも当然のことでした。車の中の悲しみは、申すのも愚かなことでした。
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続く)