訴訟の人出来の時、もし下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成つて、直に訴へを聞こし召し明らめ、理非を決断せられしかば、虞ぜいの訴へたちまちに停まつて、刑鞭も朽ち果て、諌鼓も打つ人なかりけり。まことに理世安民の政、もし機巧に付いてこれを見れば、命世亜聖の才とも称じつべし。ただ恨むらくは斉桓覇を行なひ、楚人弓を忘れしに、叡慮少しき似たる事を。これすなはち所以草創雖合一天守文不越三載也。
訴訟の人がいても、下情([一般の民衆の実情])は上に伝わらないこともあろうと、後醍醐天皇は記録所へ出られて、直接訴えを聞き事を明らかにし、理非([道理にかなっていることと外れていること])を決断されたので、虞ぜいの訴え([互いに自己の利益を主張して訴えること。虞とぜいは中国周代の国名])はたちまちになくなって、刑鞭([鞭打つ鞭])も朽ち果て、諌鼓([古代中国で、天子を諌めようとする者に打ちならさせるため,朝廷門外に設けたという鼓])を打つ人はいませんでした。まことに理世安民(世を治めて民を安める)の政治の、機巧([いろいろと才知をめぐらすこと])は、命世([名世]=[その時代に最もすぐれていて名高いこと])亜聖([大賢人])の才とも称されるものでした。ただ恨むべきことは斉桓(桓公。春秋五覇の最初の覇者)が国内を統一しましたが、「楚人弓を遺れて楚人これを得」([度量の大きなことのたとえで、自分は損をしたけれども、そのために他にいい思いをする者がいるのだからと、大目にみること])の言葉と、少し似たところがあったことでしょうか。これこそ「国を作り変えようとして、一天の君(後醍醐天皇)は守文([君主が、始祖の残した法律・制度を守って国を治めること])をなされたが、その間は三載(三年)に満たなかった」所以ではなかったでしょうか。