さるほどに新玉の年立ち返つて二月中旬にも成りければ、余寒もやうやく退きて、士卒弓を引くに手屈まらず、残雪半ば叢消えて、疋馬地を踏むに蹄を労せず。今は時分よく成りぬ。次第に府の辺へ近付き寄せて、敵の往反する道々に城を構へて、四方を差し塞いで攻め戦ふべし。いづくか要害によかるべき所あると、見試みん為に、脇屋右衛門の佐わづか百四五十騎にて、鯖江の宿へ打ち出でられけり。名将小勢にて城の外に打ち出でたるを、よき隙なりと、敵にや人の告げたりけん。尾張の守の副将軍細川出羽の守五百余騎にて府の城より打ち出で鯖江の宿へ押し寄せ、三方より相近付いて、一人も余さじとぞ取り巻きける。
やがて新玉の年立ち返って(延元二年(1337))二月中旬になって、余寒もやうやくおさまって、士卒([兵士])が弓を引くに手も縮こまらず、残雪も半ば消えて、疋馬([匹馬]=[馬])が地を踏むに難儀しないようになって、今は戦にとってよい季節となりました。次第に国府の辺へ近付いて、敵が往反([往復])する道々に城を構えて、四方を塞いで攻め戦おう。どこか要害([防御・戦闘性に富んでいること])によい所はないものかと、調べるために、脇屋右衛門佐(脇屋義助。新田義貞の弟)はわずか百四五十騎で、鯖江宿(現福井県鯖江市)へ出かけました。名将が小勢で城の外に出たのを、よい隙だと、敵に誰かが告げたのでしょうか。尾張守(斯波高経)の副将軍細川出羽守は五百騎余りで国府の城から打ち出て鯖江宿へ押し寄せ、三方より近付いて、一人も討ち漏らすまいと取り巻きました。
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続く)