やがて春宮は、その翌日より御心地例に違はせ給ひけるが、御終焉の儀閑かにして、四月十三日の暮れほどに、たちまちに隠れさせ給ひけり。将軍の宮は二十日余りまで後座ありけるが、黄疸と云ふ御労はり出で来て、御遍身黄に成らせ給ひて、これも終にはかなくならせ給ひにけり。哀れなるかな尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒原上の草、同根たちまちに三秋の霜に枯れぬる事を。去々年は兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は中務の親王金崎にて御自害あり。これらをこそ例なく哀れなる事に、聞く人心を傷ましめつるに、今また春宮・将軍の宮、いくほどなくて御隠れありければ、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人毎に、哀れを催さずと云ふ事なし。かくつらく当たり給へる直義朝臣の行く末、いかならんと思はぬ人もなかりけるが、果たして毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。
やがて春宮(恒良親王。南朝初代後醍醐天皇の皇子で皇太子となった)は、その翌日より具合が悪くなられました、終焉([死を迎えること])の儀は閑かにして、四月十三日の暮れほどに、たちまちお隠れになられました。将軍の宮(成良親王。南朝初代後醍醐天皇の皇子)は二十日余りまで永らえておられましたが、黄疸という病気になられて、遍身([全身])が黄色くなられて、同じくお隠れになられました(史実ではこの後まで生きていたらしいが)。あわれなるかな尸羅逸多(北インドを制覇した戒日王ハルシャ・ヴァルダナ)の頂きの花は、連枝([貴人の兄弟])は早くも一朝の雨に散って、悲しいかな鶺鴒([セキレイ])原の草は、同根たちまちに三秋([初秋・仲秋・晩秋])の霜に枯れてしまった。去々年は兵部卿の親王(護良親王。南朝初代後醍醐天皇の皇子)は鎌倉にて失われ、また去年の春は中務の親王(尊良親王。南朝初代後醍醐天皇の皇子)が金崎(現福井県敦賀市)で自害されました(金ヶ崎の戦い)。これらさえ前例もなく哀れなことで、聞く人は心を傷めていましたが、今また春宮(恒良親王)・将軍の宮(成良親王)が、いくほどなくてお隠れになられたので、心ある者心ない者でさえも、これを聞き及ぶ人は皆、悲しみまないものはいませんでした。ここまで厳しく当たる直義朝臣(足利直義)の行く末は、どうなることだろうかと思わない者はいませんでしたが、終に毒害されることになるとは不思議なことでした(尊氏との対立による)。
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続く)