金谷治部の大輔経氏、播磨の東条より打ち出で、吉川・高田が勢を付けて、丹生の山陰に城郭を構へ、山陰の中道を差し塞ぐ。遠江の井の介は、妙法院の宮を取り立て参らせて、奥の山に立て籠もる。宇都宮治部の大輔入道は、紀清両党五百余騎を卒して、吉野へ馳せ参りければ、旧功を捨てざる心ざしを君殊に叡感あつて、すなはちこれを還俗せさせられ四位の少将にぞなされける。この外四夷八蛮、ここかしこより起こるとのみ聞こへしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢ら、病雀花を喰らうて飛揚の翼を伸べ、轍魚雨を得てげんぐうの唇を湿ほすと、悦び思はぬ人もなし。
金谷治部大輔経氏(金谷経氏)は、播磨の東条(現兵庫県加東市)より打ち出て、吉川・高田の勢を付けて、丹生(現神戸市北区にある丹生山)の山陰に城郭(丹生山城)を構え、山陰の中道を塞ぎました。遠江井介(井伊道政)は、妙法院の宮(後醍醐天皇の皇子宗良親王の子、尹良親王?)を擁して、奥の山(現静岡県浜松市にあった井伊城)に立て籠もりました。宇都宮治部大輔入道(宇都宮公綱)は、紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])五百余騎を卒して、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)へ馳せ参りました、旧功を捨てざる心ざしを君(南朝初代後醍醐天皇)はたいそう感じられて、すぐにこの者を還俗させて四位少将にされました。この外四夷八蛮([中国の周辺地域に存在する異民族。東夷,北狄,南蛮,西戎])が、あちらこちらより蜂起すると聞こえたので、先帝(第九十六代後醍醐院)旧労の功臣、義貞(新田義貞)恩顧の軍勢たちは、病雀が花を食べて飛揚の翼を伸ばし、轍魚([轍の水たまりで苦しんでいる魚の意])が雨を得て、唇を湿おすと、よろこばない者はいませんでした。
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続く)