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「承久記」一院隠岐の国へ流され給ふ事(その7)

「かの保元の昔、新院の御いくさ破れて、讃岐の国へ遷されさせ給ひしも、ここを御通りありけるとこそ聞け。御身の上とは知らざりしものを」と思し召す。「それは王位を論じ位を望み給ふ御事なり。これはされば何事ぞ」とぞ思し召しける。美作みまさか伯耆はうきの中山を越えさせ給ふに、向かひの峰に細道あり。いづくへ通ふ道にや」と問はせ給ふに、「都へ通ふ古き道にて、今は人も通はず」と申しければ、

都人 誰踏みそめて 通ひけむ 向ひの道の なつかしきかな

出雲の国大浦と言ふ所に着かせ給ふ。三尾が崎と言ふ所あり。それより都へ便りありければ、修明門院しゆめいもんゐんに御消息あり。
知るらめや 憂目を三尾の 浜千鳥 しましま絞る 袖のけしきを




「保元の昔(保元の乱(1156))、新院(崇徳院)が軍に敗れて、讃岐国に配流になった時も、明石の浦を通ったと聞いたことがある。まさか我が身のことだとは思わなかったが」と思いました。「崇徳院(第七十五代天皇)は王位について論争し子に帝位を継がせたいと望んでのことだ。だがわたしは何故に」とも思いました。美作国と伯耆国の中山を越えている時、「向こうの山に細道がある。どこへ続く道なのか」と訊ねられましたが、「都へ通じる古道でございます、今は人も通いません」と申せば、

いったいどんな都人が、あの道を踏みしめて通っていたのだろう。なぜかあの道に、心惹かれるのだ。

後鳥羽院は出雲国の大浦(現島根県邑智おおち郡)に着きました。三尾崎という所がありました。後鳥羽院はそこから都への便りを出し、修明門院(藤原重子しげこ。後鳥羽院の后)に文を届けました。
そなたは知らないと思うが、わたしはここ三尾浜の浜千鳥のように、袖をしわが行くほどに絞り泣きながら、流され行く島々の景色を眺めている。


続く
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by santalab | 2014-05-28 07:33 | 承久記 | Comments(0)

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