六波羅には、一方の討つ手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向かひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国の勢を摩耶の城へは向くべしと被評定けるところに、後の二月四日、伊予の国より早馬を立てて、「土居の二郎・得能の弥三郎、宮方になつて旗を上げ、当国の勢を相付けて土佐の国へ打ち越ゆるところに、去る月十二日長門の探題上野の介時直、兵船三百余艘にて当国へ押し渡り、星岡にして合戦を致すところに、長門・周防の勢一戦に打ち負けて、死人・手負ひその数を不知。剰へ時直父子行き方を不知云々。それより後四国の勢悉く土居・得能に属する間、その勢すでに六千余騎、宇多津・今張の湊に舟を揃へ、ただ今攻め上らんと企て候ふなり。御用心あるべし」とぞ告げたりける。
六波羅では、一方の討つ手にと頼りにした宇都宮を千剣破城(現大阪府南河内郡千早赤阪村にあった千早城)へ向かわせましたが、西国の勢は伊東に防がれて京に上ることができませんでした、四国の勢を麻耶城(現兵庫県神戸市中央区にあった山城)へ向かわせるべきと評定([皆で相談して決めること])があったところに、後の二月四日、伊予国より早馬が立てられて、「土居次郎(土居通増)、得能弥三郎(得能通言)が、宮方に付いて旗を上げ、当国(伊予国)の勢を引き連れて土佐国へ越えようとするところを、先月十二日に長門探題([鎌倉幕府が元寇に対処するため、長門国に設置した最前線防衛機関])上野介時直(北条時直が兵船三百艘余りで伊予国に押し渡り、星岡(現愛媛県松山市星岡)で合戦しましたが、長門(現山口県西部)・周防(現山口県東部)の勢は一戦に打ち負けて、死人・手負いの者はその数知れません。その上時直父子(北条時直とその子)は行方不明とのことです。それより後は四国の勢は残らず土居(通増)・得能(通言)に従い付いて、その勢すでに六千騎余りです、宇多津(現香川県綾歌郡宇多津町)・今張(現愛媛県今治市)の湊に舟を揃えて、今にも攻め上ろうとしています。用心なさるよう」と知らせてきました。
(続く)