かかるところに、宗像の大宮司使者を参らせて、「おましの辺りは余りに分内狭うて、軍勢の宿なんども候はねば、恐れながらこの弊屋へ御入りあつて、しばらくこの間の御窮屈を休められ、国々へ御教書をなされて、勢を召され候ふべし」と申しければ、将軍やがて宗像が館へ入らせ給ふ。次の日小弐入道妙恵が方へ、南の遠江の守宗継・豊田の弥三郎光顕を両使として、頼むべき由をのたまひ遣はされければ、小弐入道子細に及ばず、やがて嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差し添へて、将軍へぞ参らせける。
その折、宗像大宮司(宗像氏長)は使者を遣わして、「将軍殿(足利尊氏)のおられる所はあまりにも分内([境界の内])が狭くて、軍勢の宿などもございませんので、恐れ多いことながらわたしの弊屋([拙宅])にお越しになられて、しばらくの窮屈な思いを休められて、国々へ御教書([御判御教書]=[将軍の命を奉じてその部下が出した文書])を出され、勢を集めなさいませ」と申したので、将軍(尊氏)はすぐに宗像の館を訪ねました。次の日小弐入道妙恵(少弐貞経)の許へ、南遠江守宗継(南宗継)・豊田弥三郎光顕(豊田光顕)を使いとして、頼りにしたいと申し遣わせると、小弐入道(貞経)は子細に及ばず、すぐに嫡子の太郎頼尚(少弐頼尚)に、若武者三百騎を付けて、将軍(尊氏)方に参らせました。
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続く)