宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行いて、熊野参詣の山伏ども道に迷うて来たれる由を云ひければ、在家の者ども哀れみを垂れて、粟の飯橡の粥など取り出だしてその飢ゑを相助く。宮にもこれらを参らせて二三日は過ぎけり。かくては始終いかが可在とも思へざりければ、光林房玄尊、とある在家のこれぞさもある人の家なるらんと思しき所に行いて、童部の出でたるに家主の名を問へば、「これは竹原八郎入道殿の甥に、戸野の兵衛殿と申す人の許にて候ふ」と云ひければ、さてはこれこそ、弓矢取つてさる者と聞き及ぶ者なれ、如何にもしてこれを頼まばやと思ひければ、門の内へ入つて事の様を見聞くところに、内に病者ありと思えて、「哀れ貴からん山伏の出で来たれかし、祈らせ参らせん」と云ふ声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ひければ、声を高らかに上げて、「これは三重の滝に七日打たれ、那智に千日籠もつて三十三所の巡礼の為に、罷り出でたる山伏ども、路に踏み迷うてこの里に出でて候ふ。一夜の宿を借し一日の飢ゑをも休め給へ」と云ひたりければ、内より怪しげなる下女一人出で合ひ、「これこそ可然仏神の御計らひと思えて候へ。これの主の女房物の怪を病せ給ひ候ふ。祈りて賜せ給ひてんや」と申せば、玄尊、「我らは夫山伏にて候ふ間叶ひ候ふまじ。あれに見へ候ふ辻堂に、足を休めて被居て候ふ先達こそ、効験第一の人にて候へ。この様を申さんに子細候はじ」と云ひければ、女大きに悦うで、「さらばその先達の御房、これへ入れ参進らせさせ給へ」と云ひて、喜び合へる事無限。
大塔の宮(護良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)をとある辻堂([道ばたに建っている仏堂])に残して、供の人々は在家に行って、熊野参詣の山伏が道に迷って来たことを言うと、在家の者たちはかわいそうに思って、粟の飯橡の粥などを出しました。大塔の宮にもこれらを参らせて二三日過ぎました。いつまでもこうしてはいられないと思い、光林房玄尊は、とある在家のそれなりの人の家であろうと思われる所に行って、童部が出てきたところに家主の名を訊ねると、「ここは竹原八郎入道殿の甥で、戸野兵衛殿(戸野良忠?)と申す人でございます」と言ったので、これこそ、弓矢取りと名に聞く者だ、なんとかして味方にしようと思って、門の内に入って様子を窺うと、内に病者がいるようで、「ああ尊い山伏はいないか、祈ってもらうのだ」と言う声がしました。玄尊は早くも究竟([極めて都合がよいこと])のことが出て来たと思い、声を高く上げて、「わしらは三重の滝(現和歌山県伊都郡かつらぎ町にある滝)に七日打たれ、那智(現和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野那智大社)に千日籠もって三十三所巡礼(西国三十三所?一番札所は那智山青岸渡寺)のために罷り出た山伏だが、道に迷いこの里に来た者だ。一夜の宿を借し一日の飢えを休めてほしい」と言うと、内より身分の低い下女が一人出て来て、「これこそ仏神のお計らいでございましょう。ここの主の女房が物の怪に憑かれましてございます。どうか祈ってくださいませ」と申せば、玄尊は、「我らは夫山伏([笈などの荷を背負って先逹に従う山伏])だから加持はできぬ。あそこに見える辻堂に、足を休めておる先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])こそ、効験第一の人ぞ。すぐにこれを申してみよう」と言うと、女はたいそうよろこんで、「ならばその先達の御房を、ここへ連れて来てください」と言って、よろこび合いました。
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続く)