また、ある夕暮れに、夜に近き、軒端の雨の物哀れなる折節に、筥王、門に立ち出でて、涙に咽ぶ時は、一萬、袖を控へつつ、「何を思ひ給へば、四方の梢に目を懸けて、さのみ泣かせ給ふぞや」「覚えぬ父ごとやらんの恋しきは、斯様に心のすごきやらん。兄御は、何とかおはする」とて、さめざめとこそ泣き居たれ。一萬、弟が手を取りて、「覚えず、知らぬ父を恋しと言はんより、愛ほしとのみ仰せらるる母に、いざや参らん」とて、袖を引きてぞ入りにける。これも、人目を忍ばんとて、互ひに諌め諌められて、心ばかりと思へども、さすが幼き心にて、忍ぶ余所目の隙々の、洩るるを見聞く人毎に、舌を振り、哀れを催さぬはなかりけり。
また、ある夕暮れ、夜近く、軒端の雨が悲しみをさそう時節、筥王は、門に出て、涙に咽ぶ時は、一萬が、袖を引いて、「何を思って、四方の梢に目を遣って、そんなに泣いているのだ」「覚えてもいない父(河津祐泰)が何とも言えず恋しくて、どうして心が苦しくなるのでしょう。兄は、何も思わないのですか」と言って、さめざめと泣きました。一萬は、弟の手を取って、「覚えてもいない、顔も知らない父を恋しく思うよりも、愛おしいとばかり申される母のところへ、さあ参ろう」と言って、袖を引いて内へ入りました。これも、人目を忍ぼうと、互いに諌め諌められて、心ばかりは強く思えど、さすがに幼い心でしたので、忍ぶ余所目は隙々から、洩れて見聞く人たちは、噂して、あわれに思わない者はいませんでした。
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続く)