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「曽我物語」神代の始まりの事(その2)

好文かうぶんやからを寵愛せられずは、たれか万機のまつりごとを助けむ。または、勇敢ようかんともがら抽賞ちうしやうせられずは、如何でか四海の乱れをしづめん。かるがゆゑに、たう太宗文たいそうぶん皇帝くわうていは、傷を吸ひて、戦士をしやうし、漢の高祖かうそは、三尺さんじやくの剣を帯して、諸侯を制し給ひき。しかるあひだ本朝ほんてうにも、中頃より、源平両氏りやうじを定め置かれしよりこの方、武略を振るひ、朝家てうかを守護し、互ひに名将めいしやうの名をあらはし、諸国の狼藉らうぜきしづめ、既に四百余くわいの年月を送りをはんぬ。これ清和せいわ後胤こうゐん、また桓武くわんむ累代るいたいなり。しかりといへども、皇氏わうじを出でて、人臣に連なり、やじりを噛み、鋒先を争ふ心ざし、取り取りなり。




好文(学問に親しむ者)の者たちを寵愛せずに、誰が万機の政を助けるというのでしょうか。また、勇敢な者どもに褒美を与えなければ、どうして四海([国内])の乱れを鎮めることができましょう。だからこそ、唐の太宗文皇帝(太宗。唐の第二代皇帝)は、傷を吸って、戦士を賞し、漢の高祖(劉邦)は、三尺の剣を帯して、諸侯を制したのです。こうして、本朝でも、中頃より、源平両氏を定め置くようになってより、武略を振るい、朝家を守護し、互いに名将の名を顕し、諸国の狼藉を鎮め、すでに四百余回の年月を送ってきました。源氏は清和(第五十六代清和天皇)の後胤([子孫])、また平家は桓武(第五十代桓武天皇)の累代でした。けれども、皇氏を出て、人臣に連なり、鏃を射、鋒先を争うその心様は、それぞれでした。


続く


by santalab | 2014-07-27 08:32 | 曽我物語

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