好文の族を寵愛せられずは、誰か万機の政を助けむ。または、勇敢の輩を抽賞せられずは、如何でか四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の太宗文皇帝は、傷を吸ひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。しかる間、本朝にも、中頃より、源平両氏を定め置かれしよりこの方、武略を振るひ、朝家を守護し、互ひに名将の名を顕し、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。これ清和の後胤、また桓武の累代なり。しかりと雖も、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃を噛み、鋒先を争ふ心ざし、取り取りなり。
好文(学問に親しむ者)の者たちを寵愛せずに、誰が万機の政を助けるというのでしょうか。また、勇敢な者どもに褒美を与えなければ、どうして四海([国内])の乱れを鎮めることができましょう。だからこそ、唐の太宗文皇帝(太宗。唐の第二代皇帝)は、傷を吸って、戦士を賞し、漢の高祖(劉邦)は、三尺の剣を帯して、諸侯を制したのです。こうして、本朝でも、中頃より、源平両氏を定め置くようになってより、武略を振るい、朝家を守護し、互いに名将の名を顕し、諸国の狼藉を鎮め、すでに四百余回の年月を送ってきました。源氏は清和(第五十六代清和天皇)の後胤([子孫])、また平家は桓武(第五十代桓武天皇)の累代でした。けれども、皇氏を出て、人臣に連なり、鏃を射、鋒先を争うその心様は、それぞれでした。
(続く)