しかれども、忠綱、究竟の兵なれば、面も振らず、大音声にて罵りけるは、「伊豆の国の住人、新田の四郎忠綱、生年二十七歳、国を出でしより、命をば君に奉り、名をば、後代に留め、屍をば富士の裾野に晒す。さりとも、後ろを見すまじきぞ。御分も引くな」と言ふままに、互ひに鎬を削り合ひ、時を移して戦ひけるに、新田の四郎は、新手なり。十郎は、宵の疲れ武者、多くの敵に打ち合ひて、腕下がり、力も弱る。太刀より伝ふ汗に血と、手の打ち繁く回りければ、太刀を平めて受くるところに、十郎が太刀、鍔本より折れにけり。
けれども、忠綱(仁田忠常)は、究竟の兵でしたので、恐れることなく、大声を張り上げて、「伊豆国の住人、新田四郎忠綱、生年二十七歳、国を出てからは、命を君(源頼朝)に奉り、名を、後代に留め、屍をば富士の裾野に晒す。たとえそうなろうが、敵に背を向けることはない。お前も逃げるな」と言うままに、互いにしのぎを削り合い、時を移して戦いました、新田四郎は、新手でした。十郎(曽我祐成)は、宵の疲れ武者、多くの敵と打ち合って、腕は下がり、力も弱っていました。太刀に伝う汗に血が混じり、忠常が繁く手を打ち出すと、太刀を横にして受けていましたが、十郎の太刀は、鍔本より折れてしまいました。
(続く)