四月十日余り、また東より武士多く上る中に、一昨年笠置へ向かいたりし足利の治部の大輔源高氏上れり。院にも頼もしく聞こし召して、かの伯耆の船上へ向かふべき由、院宣賜はせけり。東を立ちし時も、後ろめたく二心あるまじき由、愚かならず誓言文を書きてけれども、底の心やいかがあらむ、とかく聞こゆる筋もありけり。この高氏は、古の頼義の朝臣の名残りなりければ、本の根差しはやむごとなき武士なれど、承久よりこの方、頭差し出だす源氏もなくて、埋もれ過ぐしながら、類広く勢ひ四方に満ちて、国々に心寄せの者多かれば、かやうに国の危ふき折を得て、思ひ立つ道もやあらんなど、下にささめくも著くぞ見えし。
四月の十日過ぎに、また東国より武士が数多く京に上って参りましたが、一昨年笠置(現京都府相楽郡)へ向かった足利治部大輔源高氏(足利尊氏)もおりました。後醍醐院(第九十六代天皇)も頼りに思われて、伯耆の船上山に向かうよう、院宣を下されました。東国を立つ時にも、鎌倉幕府が怪しんだので二心ないことを、真摯に誓言文に書いて上ったのですが、心の底ではどう思っているのかと、あれこれ申す者もおりました。高氏は、遥か昔の頼義朝臣(源頼義)の子孫でしたので、家柄こそ立派な武士でしたが、承久の乱(1221)の後は頭角を現す源氏もなく、世に埋もれて時を過ごしておりました、一類([一族])は数多く勢力は四方に広がって、国々に心を寄せる者も多くいましたので、このような国の危機に臨んで、覚悟を決めたのではないかなどと、ひそひそ話す者も確かにおりました。
(続く)