下り位の御門は、御兄の本院と一つ持明院殿に住ませ給ふ。もとより御子の由にておはしませば、まいて、一つ院の内にて、いささかも隔てなく聞こえさせ給ふ。いと思ふやうなる御有様なり。さるべき御仲と言へども、昔も今も御腹など変はりぬるは、いかにぞや、そばそばしき事もうち交じり、くせある習ひにこそあるを、この院の御間、忠実やかに思ほし交はしたる、いとありがたうめでたし。本院は、広義門院の御腹の一の御子を、この度の坊にやと思されしかど、引き過ぎぬれば、いと遙けかるべき世にこそと、さうざうしく思さるべし。御歌合のついでなりしにや、
色々に 都は春の 時にあへど 我がすむ山は 花も開けず
大覚寺殿には、引き替へ、馬・車の立ち混みたるを御覧じて、法皇詠ませ給ひける。
我住めば 寂しくも無し 山里も あさまつりごと 怠らずして
下り位の帝(第九十五代花園天皇)は、兄であられる本院(第九十三代後伏見天皇)と同じ持明院殿(現京都市上京区にあった寺らしい)に住まれました。お二人とも伏見天皇(第九十二代天皇)の皇子でございましたので、まして、同じ一つ院の内で、何一つ隔てなくお話しなされておいででございました。たいそう望ましいご関係でございました。兄弟と申しましても、昔も今も母が違えば、どうしても、どこかよそよそしいところもあり、今一つ親密になれないものでございますが、この院(花園院と後伏見院)のお仲は、何一つそのようなことがございませんでした、まことありがたくうらやましいものでございました。本院(後伏見院)は、広義門院(西園寺寧子)の子である第一皇子(量仁。後の北朝初代光厳天皇)を、後醍醐天皇(第九十六代天皇)の坊([皇太子])にと思っておられましたが、申し出される折もなく、帝位を下りられてもうずいぶん経ってしまったと、さびしく思われるのでございました。歌合の時でございましたか、
次々に、都では帝が変わったが、わたしが住むこの山には、花開くこともない。
大覚寺殿(現京都市右京区にある寺。もと第五十二代嵯峨天皇の離宮だった)には、引き替え、馬・車が立ち混んでいるのをご覧になられて、法皇(花園院)が詠まれました。
ここにはわたしも住んでおりますれば、さびしいことはございません。山里とはいえ、朝政([朝廷の政務])も位にあった時と同じように、執り行っておりますれば。
(続く)