文永も三年になりぬ。卯月に、蓮華王院の供養に御幸あり。一の院は、赤色の上の御衣、新院は、青色の御袍奉れり。女院・大宮の御車に、平准后も参り給ふ。人だまひ三輛は、綿入れる五つ衣なり。御車の尻に仕うまつられたる上臈立つ人のにや。袷の五つ衣、藤の表衣、袖口出ださる。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継を上首にて十人、殿上人十二人、御随身ども、藤、山吹をつけたり。居飼、御厩舎人まで、世になくきらめきたり。常の見物に過ぎたるべし。
文永も三年(1266)になりました。卯月([陰暦四月])に、後嵯峨院・後深草院が蓮華王院(現京都市東山区にある寺。三十三間堂)の供養に御幸になられました。一の院(第八十八代後嵯峨院)は、赤色の上衣、新院(第八十九代後深草院)は、青色の袍を着ておられました。女院(體子内親王=神仙門院。第八十六代後堀河天皇の第二皇女)・大宮(西園寺姞子。後嵯峨天皇中宮)の車に、平准后(平棟子。後嵯峨天皇典侍)もお乗りになられました。人だまひ([供の者が乗る牛車])三輛は、綿を入れた五つ衣([表衣と単との間に 五枚の袿を重ねて着ること。五つ重ね])でございました。車の尻に乗った上臈([身分の高い女房])の人のものでございましょうか。袷([裏地をつけて仕立てた着物])の五つ衣、藤色の表衣([一番上に着る衣服])の、袖口を車から出されておりました。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継(花山院師継)を上首([集団の長])として十人、殿上人十二人、随身([貴人の外出のとき、警衛と威儀を兼ねて勅宣によってつけられた近衛府の官人])どたちは、藤、山吹を付けておりました。居飼([牛馬の世話をする役の者])、厩舎人([摂関家や将軍家に仕え、馬の世話をした者])まで、世にないほどに華やかでございました。いつもの見物にまさるものでございました。
(続く)