院の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじくおはしませば、いかばかりかと思されしかども、正応に撰者どもの事故に、患ひどもありて、撰集もなかりしかば、いとど口惜しう思されて、
我が世には 集めぬ和歌の 浦千鳥 むなしき名をや あとに残さむ
など詠ませおはしたりしを、今だにと急ぎ立たせ給ひて、
為兼の大納言
承りて、万葉よりこなたの歌ども集められき。
正和元年三月二十八日奏せらる。玉葉集とぞ言ふなる。この為兼の大納言は、
為氏の大納言の
弟に
為教の
右兵衛督と言ひしが子なり。限りなき院の御覚えの人にて、かく撰者にも定まりにけり。
嫉む人々
多かりしかど、
障らんやは。この院の
上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、
前の藤大納言
為世の心地には、変はりてなんありける。御手もいとめでたく、昔の
行成の大納言にも勝り給へるなど、時の人
申しけり。やさしうも強うも書かせおはしましけるとかや。
院の上(第九十二代伏見院)は、それはもう和歌の道に名高く、お上手でございましたので、和歌集をお作りになられようと思っておられましたが、正応に撰者をめぐって争いを起こしたので(京極為兼と二条為世)、お悩みになられて、撰集もございませんでしたが、とても残念に思われておいででしたので、
我が世には、撰集することがなかった和歌の数々を、たとえはかない名であろうとも、後の世に残したいものよ。
など詠まれておられましたが、今からでもと急ぎ思い立たれて、為兼大納言(京極為兼)に命じられて、万葉以降の歌を集められました。正和元年(1312)三月二十八日に奏上されました。玉葉集(『玉葉和歌集』)と申します。この為兼大納言は、為氏大納言(二条為氏)の弟で為教右兵衛督(京極為教)と申す人の子でございました。限りなく伏見院の覚えのある人でしたので、玉葉集の撰者に決まったのございます。嫉む人々は多くございましたが、支障はなかったのでしょうか。この院の上(伏見院)が、好まれた歌風は、前の藤大納言為世(二条為世)とは、異なっておられました。字もお上手で、昔の行成大納言(藤原
行成)にも勝っておられると、時の人は申しておりました。柔軟にも力強くにもお書きになられたとか。
(続く)