今后の御父は、先にも聞こえつる右大臣実氏の大臣、その父、故公経の太政大臣、その上夢見給へる事ありて、源氏の中将童病呪ひ給ひし北山のほとりに、世に知らず由々しき御堂を建てて、名をば西園寺と言ふめり。この所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝と言ふ庄に替へ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、さらにうち返し崩して、艶々なる園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心豊かに、海神を湛へ、峰より落つる滝の響きも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来はまことに妙なる御姿、生身もかくやと、厳しう顕され給へり。
今后(第八十八代後嵯峨天皇中宮、西園寺きつ子)の父は、先ほど申し上げた右大臣実氏大臣(西園寺実氏)でございますが、実氏大臣の父、故公経太政大臣(西園寺公経)が、その昔夢を見られて、源氏中将(光源氏)が童病([悪寒・発熱が、隔日または毎日、時を定めておこる病気])を呪われた([災いや病気を避けるために神仏などに祈る])北山のほとりに、世にないほどに厳めしい御堂を建てられて、名を西園寺(かつて現京都市北区にあった寺。今は金閣寺が建っている)と申されたのでございます。この所は、伯三位資仲(仲資王。源仲資。神祇伯=神祇官の長官)の領地でしたが、尾張国松枝という庄(現愛知県一宮市)と交換したものでございました。もともとは、田畑が多く、たいそう田舎っぽい所でございましたが、その場所を掘り起こし地をならして、みごとな園を造って、山のたたずまいは木深く、池の水豊かにして、まるで海神([海])のよう、峯より落ちる滝の音も、涙をさそう、趣き深い様でございました、本堂は西園寺、本尊の如来はまことに美しいお姿で、生身もこのようであられたのかと思われるほどに、厳めしいお姿でございました。
(続く)