堀川の具守の大臣の娘の御腹に、前の新院の若宮生まれ給へりし、六月二十七日、御元服し給ひて、八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治と聞こゆ。これも、内よりは御年三つ勝り給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁と聞こゆ。貴になまめかしうおはします。中宮の御腹には、大方、宮も物し給はねば、この御門をぞ、御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は、中宮も下りさせ給ひて、永福門院と聞こゆめり。皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中の院、いかなる便りにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難く思されければ、とかく謀りて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞こえさせ給へる事限りなし。
堀川具守大臣の娘(堀川基子)の子に、前の新院(第九十一代後宇多院)の若宮(邦治親王)がお生まれになられておりましたが、六月二十七日に、元服なされて、八月十日後伏見天皇(第九十三代天皇)の春宮に立たれました。諱を邦治と申されました。邦治親王も、内(後伏見天皇)よりはお年が三つ勝っておられました。今帝(後伏見天皇)は十一歳になられました。諱を胤仁と申されました。気品がおありで若々しくございました。中宮(第九十二代伏見天皇中宮、西園寺鏱子)には、お一人も、宮がおられませんでしたので、後伏見天皇を、子になされたのでございます。譲位の後は、中宮を下りられて、永福門院と申されました。皇后宮もこの頃は遊義門院(第九十一代後宇多院妃、姈子内親王。第八十九代後深草院の皇女)と申されました。法皇(後深草院)から離れずにおられましたが、中の院(後宇多院)が、どのような便りでしたか、ほのかに見られて、たいそう忍び難く思われて、どうされたか謀られて、盗まれて、冷泉万里小路殿(第八十八代後嵯峨院の院御所)におられました。ほかにないようなことでございました。
(続く)