かくて新帝は十七になり給へば、いと盛りに美しう、御心ばへも貴に気高う澄みたる様して、しめやかにおはします。三月二十四日御即位、この行幸の時、花山院の三位中将家定、御剣の役を勤め給ふとて、逆様に内侍に渡されけるを、今出川の大臣御覧じとがめて、出仕止めらるべき由申されしかど、鷹司の大臣、「中々沙汰がましくて悪しかりなん。ただ音なくこそ」と申し止め給へりしこそ、情け深く侍りしか。後に思へば、げに浅ましき事の験にや侍りけん。十月二十八日御禊、この度の女御代にも、堀川の大臣の姫君出で給へり。今の上も、源氏の御腹にて物し給ふ。いと珍しくやむごとなし。されど、受け張りたる様にはおはせぬぞ、心許なかんめる。
かくして新帝(第九十四代後二条天皇)は十七におなりでございますれば、盛りにして美しく、心持ちも気品がおありで気高く澄み渡られて、静かなお方でございました。正安三年(1301)三月二十四日にご即位、この行幸の時、花山院の三位中将家定(花山院家定)が、御剣の役([昼の御座の剣をささげもって従う役])を勤められましたが、誤って内侍所に渡されたので、今出川大臣(西園寺実兼)がご覧じとがめて、出仕を止めるべきと申されましたが、鷹司大臣(鷹司冬平)が、「おめでたい時に争い事はよろしくない。ここは穏便に」と申されて止められましたが、情け深いことでございましら。後に思えば、嘆かわしいことが起こる前触れでありましたか。十月二十八日に御禊([即位後の大嘗祭の前月に、天皇が賀茂川などに臨んで行なったみそぎ])、この度の女御代にも、堀川大臣(堀川具守)の姫君(堀川琮子?)が参られました。今の上(後二条天皇)も、源氏(堀川基子=源基子。堀川具守の子)の子でございました。たいそう珍しくよろこばしいことでございました。けれども、威勢を振るわれておられるようでもなく、もどかしく思われたのでございます。
(続く)