都にも、前の大納言経継・四条の三位隆久・山の井の少将敦季・五辻少将長俊・公風の少将・左衛門の佐俊顕など、皆頭下ろしぬ。女房には、御息所の御方・対の君・帥の君・兵衛の督・内侍の君など、すべて男女、三十余人様変はりてけり。やむごとなき君の御時も、かくばかりの事はいとあり難きを、仏などの現はれ給ひて、ことさらに迷ひ深き衆生を導き給ふかとまで見えたり。御本性のいとなごやかにおはしまししかば、近う仕る限りの人は、年来の御名残りを思ふもいと忍び難き上、大方の世にも差し放たれて、身を要なきものに思ひ捨つる類など、様々につけて、厭ひ背くなるべし。
都でも、前大納言経継(中御門経継)・四条の三位隆久(四条隆久)・山井少将敦季・五辻少将長俊(五辻長俊)・公風少将(公方公風?)・左衛門佐俊顕(藤原俊顕?)など、皆髪を下ろしました。女房では、御息所の御方(第九十一代後宇多天皇皇女、ばい子内親王 )・対の君・帥の君・兵衛の督・内侍の君など、合わせて男女、三十人余りが様を変えて仏門に入りました。ごりっぱであられた君(第九十四代後二条院)がお隠れになられたときにも、これほどのことはございませんでしたが、仏などが現われて、とりわけ迷い深き衆生を導いたのではいかと思えるほどでございました。生まれつきとても明るい性格でございましたので、近くでお仕えする人たちは、長年の名残りを思うと悲しみ忍び難く、ほとんどの人は世に頼みなく、無用の者に思うなど、それぞれに理由あって、俗世を厭い逃れたのでございます。
(続く)