花も紅葉も散り果てて、雪積もる日数のほどなさに、また年変はりて正中元年と言ふ。三月の二十日余り、石清水の社に行幸し給ふ。上達部・殿上人いみじき清らを尽くせり。関白殿房実は御車なり。右大将実衡、松襲の下襲、鶴の丸を織る。蘇芳の固紋の衣。左大将経忠、桜萌黄の二重織物の御下襲桜に蝶を色々に織る。花山吹の上の袴・紅の打ちたる御衣、人より異にめでたく見え給ふ。御容も、匂ひやかに気高き様して、まことに、一の人とはかかるをこそは聞こえめと、飽かぬ事なく見え給ふ。土御門の中納言顕実、花桜の下襲なりき。花山院の中納言経定などぞ、上臈の若き上達部にて、いかにも珍しからんと、世の人も思へりしかど、家のやうとかや何とかやとて、ただいつものままなり。
花も紅葉も散り果てて、雪が積もり日数を経ないほどに、また年が変わって正中元年(1324)になりました(元亨三年(1323)が飛んでる?)。三月の二十日過ぎ、後醍醐天皇(第九十六代天皇)は石清水の社(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に行幸なされました。上達部・殿上人もたいそう着飾っておいででございました。関白殿房実(九条房実)は車に乗っておられました。右大将実衡(西園寺実衡)は、松襲([襲の色目の名。表は萌葱、裏は紫])の下襲([束帯の内着で、半臂または袍の下に着用する衣])に、鶴丸を織ってございました(鶴丸は日野家の家紋だが)。蘇芳([蘇芳色]=[黒味を帯びた赤色])の固紋([綾織物の模様を、横糸に縦糸をからめ、横糸が浮かないようにかたくしめて織り出したもの])の衣でございました。左大将経忠(近衛経忠)は、桜萌黄([襲の色目の一つ。表は萌葱、裏は二藍=青紫。または赤花=赤紫、あるいは縹=薄青色。春に着用する])の二重織物([地紋の上にさらに別糸で他の文様を浮き織りにした織物])の下襲には桜と蝶を色々に織ってございました。花山吹([襲の色目の名。表は薄朽葉=明るい灰黄褐色、裏は黄色])の上袴([男子が束帯のとき、大口袴の上にはく袴])・紅の打衣([表地に光沢や張りをだす処理を施した衣])、人よりとりわけりっぱに見えました。姿かたちも、華やかで気高くて、まこと、一の人([摂政・ 関白、または太政大臣・左大臣の異称])とはこのような人であられるべきと、飽きることなく見ておりました(近衛経忠はこの時、右大臣。後に関白)。土御門中納言顕実(土御門顕実)は、花桜([襲の色目の名。表は白、裏は青または紅])の下襲でございました。花山院中納言経定など、上臈([地位・身分の高い人])の若い上達部もおられて(経定は、前右大臣花山院家定の子)、珍しい見物と、世の人も思っておりましたが、お供の家柄や何にしても、いつも通りでございました。
(続く)