しかるに次男御舎弟南都一乗院義昭、当寺御相続の間、御身に対し、いささか以つて野心御座なきの旨、三好修理大夫・松永弾正方より宥め申され侯ふ。もつともの由仰せられ侯ひて、しばらく御在寺なさる。ある時、南都を潜かに出御ありて、和田伊賀守を御頼みなされ、伊賀、甲賀路を経て、江州矢島の郷へ御座を移され、佐々木左京大夫承禎を頼み思し召すの旨、種々様々上意侯ふといへども、すでに主従の恩顧を、忘れ、同心能はず、結局、雑説を申し出だし、情けなく追ひ出だし申すの間、頼む木本に雨漏れ、 甲斐なく、また、越前へ下向なされ訖んぬ。朝倉の事、元来、その者にあらずといへども、 かの父上意を掠め、御相伴の次に任じ、我が国に於いて我意に振舞ひ、御帰洛の事、中々詞に出だされざるの間、これまた、公方様御料簡なし。
こうして(室町幕府第十二代将軍、足利義晴の)次男で第十三代将軍足利義輝の弟南都一乗院義昭(足利義昭)は、当寺(一条院。現奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一)を相続されておられましたが、自身が、わずかも野心を持っておられぬことを、三好修理大夫(三好長慶)・松永弾正(松永久秀)方に申されました。理路整然に申されて、しばらく一条院におられました。ある時、南都(奈良)を潜かに出られて、和田伊賀守(和田惟政)を頼られて、伊賀、甲賀路を経て、近江国矢島郷(現滋賀県野洲市)へ移られて、佐々木左京大夫承禎(六角義賢)を頼りたいと、種々様々上意([上意下達]=[上位の者や上層部の命令・意向を、下に伝えること])されましたが、すでに主従の恩顧を、忘れ、同心せず、結局、雑説([とりとめのない噂])を申して、情けなく追い出されて、頼む木本に雨漏れ、 仕方なく、また、越前へ下向なさいました。朝倉(朝倉義景)は、元来、主だった大名ではありませんでしたが、朝倉義景の父(朝倉孝景)が上意を窺い、相伴衆([将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々])の次席に任じられ、我が国においては意のままに振る舞っておりましたが、帰洛のことを、勧めることもありませんでしたので、これもまた、公方様(足利義昭)は頼りにならないと思われました。
(続く)