この上は、織田上総介信長をひとへに頼み入られたきの趣き、仰せ出だされ、すでに国を隔て、その上、信長沽弱の士なりといへども、天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽んじ御請なさる。永禄十一年七月二十五日、越前へ御迎へのため、和田伊賀守、 不破河内守、村井民部、島田所之助を進上なさる。濃州西庄立政寺に至りて公方様御成り、末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬色々進上申され、その外、諸侯の御衆、これまた、御馳走斜めならず。この上は、片時も御入洛御急ぎあるべしと、思し召さる。
この上は、織田上総介信長(織田信長)をひたすら頼るほかないと、申されたので、国は遠く、その上、信長は弱小の武士でしたが、天下の忠功を致そうと思い、命を軽んじて受けることにしました。永禄十一年(1568)七月二十五日に、信長は足利義昭を越前までお迎えに、和田伊賀守(和田惟政)、 不破河内守(不破光治)、村井民部(村井貞勝)、島田所之助(島田秀満)をさし向かわせました。美濃国西庄の立政寺(現岐阜県岐阜市にある寺)に参り公方様(足利義昭)がお出になられました、末席に鳥目([銭])千貫積んで、太刀・鎧・武具・馬色々と進上されて、そのほか、諸侯の衆、これもまた、盛大に馳走されました。信長が同心の上は、片時も入洛を急ぐべきと、思われたのでございました。