今の摂政は、院の御時の関白基通の大臣。その後は後京極殿良経と聞こえ給ひし、いと久しくおはしき。この大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治の頃、千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを当帝位の御ほどに、また集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の次郎君右衛門督通具と言ふ人をはじめにて、有家の三位・定家の中将・家隆・雅経などにのたまはせて、昔より今までの歌を、広く集めらる。各々奉れる歌を、院の御前にて、身づから磨き整へさせ給ふ様、いと珍しくおもしろし。この時も、先に聞こえつる摂政殿、とりもちて行なはせ給ふ。
今の摂政は、後鳥羽院(第八十二代天皇)の御時の関白基通大臣(近衛基通)でございました。その後は後京極殿良経(九条良経)と聞こえて、たいそう長く関白であられました。この大臣(九条良経)はたいそう和歌がお上手で、院の上(後鳥羽院)と、和歌の道を語り合っておられました。文治の頃(文治四年(1188))、千載集(『千載和歌集』。第七十七代後白河院の勅撰)がございましたが、後鳥羽院はまだ幼くございましたからでしょうか、御製([天皇の作る詩文や和歌])も入っておられませんでしたので当帝(第八十三代土御門天皇)が位にあられた頃に、また編纂を命じられました(『新古今和歌集』)。土御門内大臣(源通親)の次男右衛門督通具(堀川通具=源通具)と言う人をはじめとして、有家の三位(六条有家)・定家中将(藤原定家)・家隆(藤原家隆)・雅経(飛鳥井雅経)などに命じられて、昔より今までの歌を、広く集められました。各々集められた歌を、後鳥羽院の御前で披露されましたが、後鳥羽院自ら磨き調えられる様は、たいそう珍しう趣きがございました。この時も、先に申しました摂政殿(近衛基通)が、取り持たれたのでございます。
(続く)