またの年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸なる。常よりも異に面白かるべい度なれば、かの殿にも心遣ひし給ふ。先づ中宮行啓、またの日行幸、前の右の大臣兼季参り給ひて、楽所の事など置きてのたまふ。康保の花の宴の例など聞こえしにや。北殿の桟敷にて、内々試楽めきて、家房の朝臣舞はせらる。御簾の内に大納言二位殿、播磨の内侍など、琴掻き合はせて、いと面白し。六日の辰の時に事始まる。寝殿の階の間に御褥参りて、内の上おはします。第二の間に后の宮、その次永福門院・昭訓門院も渡らせ給ひけるにや。
翌年(元徳三年(1331))の春、三月の初め頃、後醍醐天皇(第九十六代天皇)は花をご覧になられに北山に行幸になられました。いつもにもまして趣きのある行幸ですれば、常盤井殿(後醍醐天皇の里内裏)でも怠りなく準備されました。まず中宮(西園寺禧子)が行啓([太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること])、次の日行幸がございました、前の右大臣兼季(今出川兼季)が参られて、楽所など手配されました。康保(第六十二代村上天皇の時代)の花の宴の例に倣ったといわれました。北殿の桟敷([祭りの行列や花火の見物などのために、道路や川などに面してつくる仮設の席])では、内々の試楽があり、家房朝臣(冷泉家房)が舞を舞われました。御簾の内では大納言二位殿(京極為子?藤大納言典侍)、播磨内侍(三善衡子。第九十二代伏見天皇の後宮)など、琴を掻き合わせられて、たいそう面白うございました。六日の辰の時([午前八時頃])に宴が始まりました。寝殿([紫宸殿])の階の間([階隠しの間 ]=[階を上った上段、簀子に面する庇の間])に褥([座るときや寝るときに下に敷く物])を敷かれた上に、内の上(後醍醐天皇)が座っておられました。第二の間には后の宮(西園寺禧子)、その次の間には永福門院(西園寺鏱子。第九十二代伏見天皇中宮)・昭訓門院(第九十代亀山院の妃)もおられたとか。
(続く)