中務の御子・大塔の宮などは、予てよりここを出でさせ給ひて、楠木が館におはしましけり。行幸もそなた様にやと思し心ざして、藤房・具行両中納言、師賢の大納言入道、手を取り交はして、炎の中を免れ出づるほどの心地ども、夢とだに思ひも分かれず、いと浅まし。少し延びさせ給ひてぞ、御馬尋ね出でて、君ばかり奉りぬれど、習はぬ山路に御心地も損なはれて、まことに危ふく見えさせ給へば、高間の山と言ふ渡りに、しばし御心地をためらふところに、山城の国の民にて、深栖の五郎入道とか言ふ者、参りかかりて、案内聞こえたるしも、いとめざましう口惜し。上達部、思ひ遣る方なくて、ただ目を見交はして、いかさまにせんとあきれたるに、東より上れる大将軍にて、陸奥の国の守貞直と言ふ者、大勢にて参れり。今はただ、ともかくものたまはすべきやうなければ、遂に甲斐なくて、敵のために御身を任せぬる様なり。
中務の御子(尊良親王)・大塔の宮(護良親王)などは、すでに笠置城(現京都府相楽郡笠置町にあった山城)を出られて、楠木(楠木正成)の館におられました。行幸もそちらへと思われて、藤房(万里小路藤房)・具行(北畠具行)両中納言、師賢(花山院師賢)大納言入道は、互いに手を取り合って、炎の中を落ちて行きましたが、まるで夢のような心地で、嘆かわしいものでございました。少し落ち延びて、馬を尋ね出して、君(第九十六代後醍醐天皇)ばかりお乗せになられましたが、習わぬ山路に心地も弱られて、まことに危うく見えたので、高間山(有王山。現綴喜郡井手町の東部にある山)というあたりで、しばらく休んでおられましたが、山城国の住民で、深栖五郎入道とかいう者が、やって来て、捕らえられてしまわれました、たいそう残念なことでございました。上達部は、あっけに取られて、ただ目を見交わして、夢ではないかと思うところに、東国より上れる大将軍で、陸奥の国守貞直(大仏貞直)と言う者が、大勢で攻めて来ました。今はただ、何も申すこともなくして、遂に甲斐もなく、敵に身を任せることになったのでございます。
(続く)