やがて宇治に行幸あるべき由奏すれば、御心にもあらで、引かされおはしますほどに、心憂しと言ふも斜なり。具行・藤房・忠顕の少将など、やがておのが手の者どもに従へさせつ。大納言入道、御馬の尻に走り後れて、ここかしこの岩陰、木の下に休みつつ、 とかくためらふほどに、それも見つけられて捕られぬ。君をば宇治へ入れ奉りて、先づ事の由六波羅へ聞こゆるほどに、一日、二日御逗留あり。かく言ふは九月三十日なれば、空の気色さへ時雨がちに、涙催し顔なり。平等院の紅葉御覧じ遣らるるも、かからぬ御幸ならばと、敢へなし。後冷泉院かとよ、ここに行幸し給ひて、三、四日おはしましける、その世の人の心地、上下何事かはと、羨ましくあはれに思さる。
すぐに宇治に行幸されるべきと奏上があり、後醍醐天皇(第九十六代天皇)は仕方なく、同意なされましたが、その悲しみはあまりあるものでございました。具行(北畠具行)・藤房(万里小路藤房)・忠顕少将(千種忠顕)など、すぐに手の者たちに供をさせました。大納言入道(花山院師賢)は、列の後を付けておりましたが遅れて、あちらこちらの岩陰、木の下で休みながら、ぐずぐずしておりましたので、見付けられて捕われてしまいました。君(後醍醐天皇)を宇治(現京都府宇治市にある宇治平等院)に移されると、まずは六波羅探題に知らせましたので、後醍醐天皇は宇治に一日、二日逗留になられました。頃は九月三十日のことでございますれば、空模様も時雨がちで、後醍醐院もふと涙を流されておいででございました。平等院の紅葉をご覧になられても、このような御幸でなければと、残念に思われるのでございました。後冷泉院(第七十代天皇)でございましたか、宇治に行幸なされて、三、四日逗留になられたことがございましたが、その世の人の心は、上下ともにどのようなものであったかと、うらましく思われてどうしようもございませんでした。
(続く)