さて例の東より御使ひ上れり。代々の例とかやとて、秋田の城の介高景、二階堂の出羽の入道道薀とかや言ふ者ぞ参れる。西園寺の大納言公宗卿に事の由申して、春宮御位に就き給ふ。さるべき御事と言ひながら、今日明日とは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅より、この度は世の常の行啓の儀式にて、持明院殿へ入らせ給ふ。両院も引き繕ひたる御幸の由なり。ひしめき立ちぬる世のおとなひを聞こし召す先帝の御心地、譬へなく妬く人悪し。もとの内裏へ新帝移らせ給ふ。上達部残りなく仕らる。院も常盤井殿へおはしまいて、世の政聞こし召せば、後宇多院の昔思ひ出でられて哀れなり。
さていつものように東国(鎌倉幕府)より使いが参りました。代々の慣例とか申して、秋田城介高景(安達高景)、二階堂出羽入道道薀(二階堂貞藤)とか申す者が入洛しました。西園寺大納言公宗卿(西園寺公宗)に事の次第を伝えて、春宮が帝位に就かれました(北朝初代光厳天皇)。いつかは位に就かれることではございましたが、今日明日のこととは思えませんでしたので、たいそうおめでたいことでございました。六波羅探題より、この度はいつもの行啓([太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること])の儀式で、持明院殿(持明院統の里内裏。現京都市上京区にあった)へ入られました。両院(第九十三代後伏見院と第九十五代花園院)も儀式に沿って御幸されました。ひしめき立つ世の騒ぎをおききになられた先帝(第九十六代後醍醐天皇)の心の内、たとえようもなく妬ましく惨めなものでございましたでしょう。後醍醐院の里内裏(常盤井殿)へ新帝(光厳天皇)を移されました。上達部([公卿])は残る者なくお供いたしました。院(後伏見院と花園院)も常盤井殿へ移られて、世を治められました、後宇多院(第九十一代天皇)の昔(大覚寺統後宇多天皇が鎌倉幕府の意向により、持明院統第九十二代伏見天皇に譲位したこと)が思い出されておかわいそうでございました。
(続く)