福原の島より、宮は御舟に奉る。御門は、和田の岬・苅藻川をうち渡して、須磨の関にかからせ給ふ。かの行平の中納言、『関吹き越ゆる』と言ひけんは、浦より遠なるべし。あはれに御覧じ渡さる。源氏の大将の、『泣く音にまがふ』とのたまひけん浦波、今もげに御袖にかかる心地するも、様々御涙の催しなり。播磨の国へ着かせ給ひて、塩屋・垂水と言ふ所をかしきを、問はせ給へば、『さなん』と奏するに、『名を聞くよりからき道にこそ』とのたまはせて、差しのぞかせ給へる御様容、振り難くなまめかし。け近き限りは、あはれにめでたうもと思ひ聞こゆべし。
福原の島(経の島。平清盛が大輪田の泊に築いた波浪よけの島)より、宮(中務卿親王。第九十六代後醍醐院の皇子、尊良親王)は舟に乗られました。御門(後醍醐院)は、和田岬(現神戸市兵庫区、大阪湾に突出する岬)・苅藻川(現兵庫県神戸市長田区にある長田神社の西を流れる川)を渡られて、須磨の関(摂津国と播磨国との境に置かれた古代の関所。現神戸市須磨区)も近くなりました。かの行平中納言(在原行平。第五十一代平城天皇の孫で、在原業平の兄)が、『関き越ゆる』(『旅人は 袂すずしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦風』=『旅人の袂も寒々するほどに、須磨の関に吹き付ける須磨の浦風よ』。旅人=在原行平自身。行平は第五十五代文徳天皇の御代に須磨に蟄居させられたらしい)と詠んだ須磨の関は、浦から遠い所でした。後醍醐院はしみじみと眺めておられました。源氏大将(光源氏)が、『泣く音にまがふ』(『恋ひわびて 泣く音にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらむ』=『浦波の音を、恋しくて泣く声と聞き間違えてしまったのは、わたしが恋しく思うあなたのいる方角より風が吹くせいなのか』)と詠んだ浦波が、今も御袖にかかる心地がして、後醍醐院は所々で涙を流さずにはおられませんでした。播磨国にお着きになられて、塩屋(現兵庫県神戸市垂水区)・垂水(現兵庫県神戸市垂水区)と申す所は名所かと、お訊ねになられると、『その通りでございます』と奏されたので、『名に聞くよりつらい(塩屋=辛い)道だな』と申されて、お立ち寄りになられたお姿には、なんとも申せぬ気品がただよっておられました。近くにいた者たちは、なんともすばらしいお姿であられたと申されたそうでございます。
(続く)