御門も公主も、後の御わざと言う事なく、ただ戦に纏はれて、謀を定め、兵を選ばるる外の事なし。年も大人び、万の事をみづから行ひ給ふ方はさこそ言へ、戦の猛もこよなく、謀も賢かれば、日に添へて強り行くに、遂に敵の兵、潼関と言ふ関を越えぬ。「軍の猛く、矢先のけやけく勇める事、面を向かふべきにあらず」とて、防ぐ兵、雨の脚の如逃げ返るおとなひ、言ふ由なく恐ろしきに、御門・母后一つ御輿に乗り給ひて、にはかに未央宮を出で給ひぬ。さすがに文武の司を従へて、さるべき国の宝どもは持たせ給へど、我先に戸惑ひ出づる道、責むべき方なきに心より外に伴ひ染めて、逃れ出でむ方もなければ、夜とも言はず馳せ走るよりほかの事なし。
帝も華陽公主も、後の供養もなく、ただ戦に忙殺されて、計略を練り、兵を集めるばかりでした。年も大人びて、万事優れていることは言うまでもなく、弁少将は年も大人びて、戦をも恐れず、謀略にも長けていましたので、日毎に防いでいましたが、遂に敵の兵が、潼関(現中国陝西省東端の県。河南・山西両省との境の、南流する黄河が華山に衝突して東に流れを変える地点にあり、古来、交通・軍事の要地で、漢代に関が置かれた)という関を越えて攻めて来ました。「軍兵は強く、矢がひっきりなしに飛んで来る、これでは防ぎようがない」と、防ぐ兵は、雨足の如くさっさと逃げ返るその足音が、例えようもなく恐ろしく聞こえて、帝・母后は同じ輿に乗られて、急ぎ未央宮(前漢の都である長安の南西部にあった宮殿。ちなみにこの話は唐代で都は長安と呼ばれたが、漢代の長安とは別の場所)を出ていかれました。さすがに文武の司を従え、国宝を持って出られましたが、我先にと逃げ出す者を見られて、誰を責めることもできませんでした、逃れ行く地もありませんでしたが、ただ夜ともいわず急ぎ都を離れました。
(続く)