我が本国の仏神を念じ奉りて、遥かに返り向かふ道、やうやう日は暮れ果てていと暗き夜に、深き山に入りて、巌越え木の根を踏みて惑ひ行けば、敵に向かはぬ前に、落ち入り死ぬる者も多かれど、廻れる山の前は遥かなる海面の、また道もなきを見置きて、葉山の茂りに隠ろへて、遥かに見渡さるるほどに、はかなき木の枝・木の葉を掻き集めて、人一二人を留め置きつ。我は、遥かに来つる方に帰りて、高き峰に上り居て待つに、追ふ軍三万人許り、夜の明け方にこの浦を過ぎ行くに、通り果つるほどに、高き葉山のをちこち二三十里ばかりに、一度に火を合はせて煙を立つる、暗き夜の空に見え紛ふ時、後ろに声を合はせて、大きに呼ばひて馳せ下るに、思わぬ方に敵を得て、向かひ合ふ心なし。前後ろ一度に呼ばひ合はせたるに、包まれぬと思ふに心を惑はして、海の方に走り倒るる時、山の挊木を追ふが如く、射払ふ矢先に遭ふ者なし。
弁少将は日本の仏神を念じながら、遥かの道を戻りました、日が暮れてとても暗い夜でした、山深く入り、大岩を越え木の根を踏みながら迷い行きましたが、敵に対峙する前に、谷に落ちて死ぬ者も多くいました、山を取り巻く前は遥かな海原(当地に海はない)で、道もないのを認めて、葉山の茂みに隠れて、遥か遠くを見渡せるほどに、一二人を留め置きました。弁少将は、またもとの道に帰って、高い山に上って待っていると、追う軍兵が三万人ばかり、夜の明け方にこの浦を過ぎて行きました、敵が通り過ぎた頃に、高い葉山のあちこち二三十里ほどに、一度に火を付けて煙を立てて、暗い夜の空のようにあたりが見えなくなった時、敵の後ろの者と声を合わせて、大声で叫びながら急ぎ山を下りると、敵は思いもしなかった敵に遭遇して、戦う気力もありませんでした。敵の前後からいっせいに声を上げたので、取り囲まれたと動揺して、海の方に走り逃げ討たれました、まるで山の挊木([鹿])を追うように、射かけましたが向かう敵はいませんでした。
(続く)