京には、十月になりて、御禊・大嘗会などの急ぎに、天の下物騒がしう、内蔵寮・内匠寮・打ち殿・染殿、何くれの道々につけて、かしがましう響き合ひたるも、かたつ方は涙の催しなり。悠紀・主基の御屏風の歌、人々に召さる。書くべき者のなければ、かしこへ参れる行房中将をや召し返されましなど、定め兼ね給ふを、まだきに伝へ聞こし召しければ、宵の間の静かなるに、御前に異に人もなく、この朝臣ばかり候ひて、昔今の御物語のたまふついでに、「都に言ふなる事は、いかがあらんとすらん。さもあらば、いとこそ羨ましからめ」と、うち仰せられて、火をつくづくと眺めさせ給へる御目見の、忍ぶとすれど、いたう時雨させ給へるを見奉るに、中将も心強からず、いと悲し。
京では、十月になって、御禊([天皇の即位後、大嘗会の前月に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式])・大嘗会([天皇が即位後初めて行う新嘗祭])の準備に忙しく、天下は物騒がしうございました、内蔵寮([中務省に属し、金銀・珠玉や供進の御服、祭祀の奉幣などを司った])・内匠寮([中務省に属し、調度の作製・装飾をつかさどった役所])・打ち殿([装束に仕立てる平絹や綾を砧で打ってつや出しするための建物])・染殿(宮中や貴族の邸内で糸や布の染め物をした建物])、そこここで、やかましいほどに音を立て響き合っておりましたが、一方隠岐では涙に明け暮れておいででございました。京では悠紀・主基([悠紀・主基は、大嘗祭における祭儀に関する名称])の屏風の歌を、人々に書くようにと命じられました。書くべき者がいなかったので、隠岐に参った行房中将(世尊寺行房)を召し返すよう申されました、行房はどうすべきか決めかねて、まだ後醍醐院(第九十六代天皇)には話しておりませんでした、宵の間の静けさに、御前には他に人もなく、この朝臣ばかり伺候されて、昔今の物語を話されておいででございましたが、「都から何か申してきたというが、何事か。もし召し返すということならば、なんとも羨ましいことだ」と、つぶやくように申されました、火をじっと眺めらるその目元から、忍ぼうとすれど、いたく涙がこぼれ落ちるのを見て、中将(行房)も心折れて、とても悲しくなりました。
(続く)