月来干る世なき涙も、さし当たりては、まだ習はぬまで、物のいみじく思ゆれば、暮らしも果てず、松風を尋ねて分け入れど、人の跡もなし。世に知らぬ匂ひは留まれる心地して、むなしき床のさびしさを、うちもまどろまず嘆き明かせど、何の験もなし。由なき朝の道も、人や咎めむと煩はしさに急ぎ帰れど、いとどしき左右の思ひにのみ焦がれ勝りて、まことにせむ方もなし。頼む事と、行きては帰る道にのみ誘はるれど、盛りなりし梅の花も散り過ぎて、人の通へる気色もなし。かすかに頼み難けれど、後の契りの形見の珠を得てだに、世とともの物をのみ思うふ身に、さばかりの名残りだに留まらぬ一夜の恋しさに、積もる日数に添へて、生ける心地もせず。「なぞや。一方にだに焦がれぬ恋の煙ぞ」と、身ながら恥づかしう思ひ知らるるままに、朝夕交じらひに付けても、いとど物のみ悲しくて、月も経ちにけり。
涙は乾くことはありませんでしたが、一方では、今までにないほどに、心焦がれて、日が暮れるのを待ちきれず、松風を尋ねて山里に分け入りましたが、人影もありませんでした。えもいえぬ梅の香りばかりは残るような気がして、弁少将は誰もいない寝床でただ独り、まどろむこともなく悲しみながら夜を明かしましたが、女は幻でさえも現れることはありませんでした。甲斐もなく朝の道を、もしや人に咎められるのではないかと急ぎ帰りましたが、心の惑いは増すばかり、鎮めようもありませんでした。今夜は逢えますようにと望みをかけて、出かけては由なく帰る道でしたがそれでも諦めきれずに、盛りの梅の花も散り、人が通った跡さえありませんでした。一縷の望みさえ叶わず、後世の契りと華陽公主から手渡された珠さえも、今生での悲しみに堪えるものでなく、まして名残りさえも残らぬあの一夜が恋しくて、行き交う日数とともに、生きる気力も失うほどでした。「どうすれば、恋い焦がれる我が身の煙を消すことができるのか」と、恥ずかしくも思い知らされて、朝夕参内する度に、悲しみは募り、一月経ちました。
(続く)