さて御幸は近江の国におはしますほどに、伊吹と言ふ辺にて、某の宮とかや、法師にていましけるが、先帝の御心寄せにて、かやうの方もほの心得侍りけるにや、待ち受けて矢を放ち給ふ。また京よりも追手かかるなど聞こえければ、六波羅の北と言ひし仲時、内・春宮・両院具し奉り、番馬と言ふ所の山の内に入れ奉りぬ。手の者どももなほ残りて従ひ付きけれども、戦ひも適はずやありけん、終にこの山にて腹切りにけり。同じき南時益と言ひしは、これまでも参らず、守山の辺にて失せにけりとぞ聞こえし。あやなくいみじき事の様なり。御所々の御供には、俊実の大納言・経顕の中納言・頼定の中納言・資名の大納言・資明の宰相・隆蔭などぞ残り候ひける。俊実・資名・頼定などは、やがてそこにて髻切りてけり。一院は、帰り入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて、「面々に御出家あるべし」などまで申させけれども、思ひも寄らぬ由を、固く申させ給ひけるとかやとぞ聞こえし。
さても帝(北朝初代光厳天皇)は近江国に御幸になられました、伊吹(現滋賀県米原市)というほとりに、某の宮とか申して、法師となっておられましたが、先帝(第九十六代後醍醐院)に心を寄せておられて、弓矢のほうにも少しばかり馴れておられたのか、帝を待ち受けて矢を放たれました。また京よりも追手が追いかけて来るなどと聞こえたので、六波羅探題北方の仲時(北条仲時)は、内(光厳天皇)・春宮(木寺宮康仁親王)・両院(第九十三代後伏見上皇と第九十五代花園上皇)をお連れして、馬場(現滋賀県米原市)という山の中へ逃げ延びました。手の者たちも残って従い付いておりましたが、戦うことも適わず、終に仲時はこの山で切腹しました。同じく六波羅探題南方の時益(北条時益)と申す者は、これまでも参ることなく、守山(現滋賀県守山市)のあたりで亡くなったということです。方々の供には、俊実大納言(坊城俊実)・経顕中納言(勧修寺経顕)・頼定中納言(冷泉頼定)・資名大納言(日野資名)・資明宰相(柳原資明。日野資名の弟)・隆蔭(四条隆蔭)らが残りました。俊実(坊城俊実)・資名(日野資名)・頼定(冷泉頼定)らは、やがてそこで髪を下ろして出家しました。一院(後伏見上皇)は、京に戻られました。帝(光厳天皇)に文を届けさせて、「各々出家されよ」と申されましたが、思いもよらなかったことですれば、固辞されたということでございます。
(続く)