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「増鏡」月草の花(その12)

さて御幸は近江あふみの国におはしますほどに、伊吹いぶきと言ふほとりにて、なにがしの宮とかや、法師ほふしにていましけるが、先帝の御心寄せにて、かやうの方もほの心得侍りけるにや、待ち受けて矢を放ち給ふ。また京よりも追手おひてかかるなど聞こえければ、六波羅の北と言ひし仲時なかとき、内・春宮・両院具し奉り、番馬と言ふ所の山の内に入れ奉りぬ。手の者どももなほ残りて従ひ付きけれども、戦ひも適はずやありけん、つひにこの山にて腹切りにけり。同じき南時益ときますと言ひしは、これまでもまゐらず、守山の辺にて失せにけりとぞ聞こえし。あやなくいみじき事の様なり。御所々の御供には、俊実としざねの大納言・経顕つねあきの中納言・頼定よりさだの中納言・資名すけなの大納言・資明すけあきの宰相・隆蔭たかかげなどぞ残りさぶらひける。俊実としざね・資名・頼定よりさだなどは、やがてそこにてもとどり切りてけり。一院は、かへり入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて、「面々に御出家あるべし」などまでまうさせけれども、思ひも寄らぬ由を、固く申させ給ひけるとかやとぞ聞こえし。




さても帝(北朝初代光厳天皇)は近江国に御幸になられました、伊吹(現滋賀県米原市)というほとりに、某の宮とか申して、法師となっておられましたが、先帝(第九十六代後醍醐院)に心を寄せておられて、弓矢のほうにも少しばかり馴れておられたのか、帝を待ち受けて矢を放たれました。また京よりも追手が追いかけて来るなどと聞こえたので、六波羅探題北方の仲時(北条仲時)は、内(光厳天皇)・春宮(木寺宮康仁親王きでらのみや やすひとしんのう)・両院(第九十三代後伏見上皇と第九十五代花園上皇)をお連れして、馬場(現滋賀県米原市)という山の中へ逃げ延びました。手の者たちも残って従い付いておりましたが、戦うことも適わず、終に仲時はこの山で切腹しました。同じく六波羅探題南方の時益(北条時益)と申す者は、これまでも参ることなく、守山(現滋賀県守山市)のあたりで亡くなったということです。方々の供には、俊実大納言(坊城俊実)・経顕中納言(勧修寺くわじうじ経顕)・頼定中納言(冷泉頼定)・資名大納言(日野資名)・資明宰相(柳原資明すけあき 。日野資名の弟)・隆蔭(四条隆蔭)らが残りました。俊実(坊城俊実)・資名(日野資名)・頼定(冷泉頼定)らは、やがてそこで髪を下ろして出家しました。一院(後伏見上皇)は、京に戻られました。帝(光厳天皇)に文を届けさせて、「各々出家されよ」と申されましたが、思いもよらなかったことですれば、固辞されたということでございます。


続く


by santalab | 2014-11-25 08:50 | 増鏡

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