やがて使者を以つて被申遣けるは、「東国はいまだ世閑かにて、御心安かるべきにて候ふ。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留め置き参らせられ候ふべし。次に両家の体を一つにして、水魚の思ひを被成候上、赤橋相州御縁に成り候ふ、かれこれ何の不審か候ふべきなれども、諸人の疑ひを散ぜん為にて候へば、恐れながら一紙の誓言を被留置候はん事、公私に付いて可然こそ存じ候へ」と、被仰たりければ、足利殿、欝胸いよいよ深かりけれども、憤りを抑へて気色にも不被出、「これより御返事を可申」とて、使者をば被返てげり。その後舎弟兵部の大輔殿を被呼参て、「この事可有如何」と意見を被訪に、しばらく案じて被申けるは、「今この一大事を思し召し立つ事、まつたく御身の為にあらず、ただ天に代はつて無道を誅し、君の御為に不義を退けんとなり。その上誓言は神も不受とこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞被載候とも、仏神などか忠烈の心ざしを守らせ給はで候ふべき。なかんづく御子息と御台とは、鎌倉に留め置き参らせられん事、大儀の前の少事にて候へば、あながちに御心を可被煩にあらず。君達いまだ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、その為に少々被残置郎従ども、いづ方へも抱きかかへて隠し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿とてもおはしまし候はんほどは、何の御痛はしき事か候ふべき。『大行は不顧細謹』とこそ申し候へ。これらほどの小事に可有猶予あらず。ともかくも相摸入道の申さんままに随つてその不審を令散、御上洛候ひて後、大儀の御計略を可被回とこそ存じ候へ」と被申ければ、足利殿この道理に服して、御子息千寿王殿と、御台赤橋相州の御妹とをば、鎌倉に留め置き奉りて、一紙の起請文を書いて相摸入道の方へ被遣。
やがて使者をもって申し遣るには、「東国はいまだ世は静かで、何の心配もありません。幼いご子息を、皆鎌倉に置かれてはどうでしょう。次に両家(足利高氏の正室は、北条久時の娘、赤橋登子)を一つにして、水魚([水魚の交わり]=[水と魚のように 切っても切れない親しい関係])になされて、赤橋相州(赤橋守時。登子の兄。相模守)と縁を結ばれておりますれば、何の不審もございませんが、諸人の疑いを晴らすためでございます、恐れながら一紙の誓言を留め置かれますよう、公私ともどもさるべきと存じ上げます」と、申されたので、足利殿(足利高氏)は、疎ましく思う気持ちがますます深まりましたが、怒りを抑えて顔には出さず、「こちらより返事申し上げます」と申して、使者を帰しました。その後弟の兵部大輔殿(足利直義)を呼んで、「どうすればよいだろう」と意見を訊ねました、直義はしばらく考えて申すには、「今の一大事(謀反)を思い立たれたのは、まったく私のためではありません、ただ天に代わって無道の者を誅し、君(第九十六代後醍醐院)のために不義を退けるためです。その上誓言は神もこれを受けずと申されましょう。たとえ偽って起請文を書かれても、仏神が忠烈([きわめて忠義心の厚いこと])の心ざしをお守りしないことはありません。申すまでもなくご子息と御台([正室])を、鎌倉に留め置くことなど、大儀の前の少事ですれば、深く思い悩むことはありません。君達はまだ幼くありますから、戦が起これば、少々留め置いた郎従([家来])たちが、どこにでも抱きかかえて隠されることでしょう。御台につきましては、赤橋殿がおられることですから、何のつらい目にも遭うこともございません。『大事を行うには、小事を気にしてはならない』と申します。これらほどの小事に猶予している隙はございません。ともかくも相摸入道(北条高時)の申すままに不審を取り除くことです、大儀は計略を廻らせてこそ成るものでございますれば」と申したので、足利殿(高氏)もこの道理をもっともだと思い、子息千寿王殿と、御台赤橋相州(赤橋守時)の妹(登子)を、鎌倉に留め置き、一紙の起請文を書いて相摸入道(北条高時)に使いを遣りました。
(続く)