この頃、堀川の大殿と聞こえさせて、関白し給ふは、一条の院・当帝などの、一つ后腹の五の御子ぞかし。母后も、うち続き帝の御筋にて、何方に付けても、押し並べての大臣と聞こえさするも忝けれど、何の罪にか、徒人になり給ひにければ、故院の御遺言のままに、帝、ただこの御心に世を任せ聞こえさせ給ひて、公・私の御有様めでたし。二条堀川のわたりを四町築き込めて、心々に隔てつつ、造り磨かせ給へる玉の台に、北の方三人をぞ住ませ奉る。堀川二町には、御所縁離れず、故先帝の御妹、前の斎宮おはします。洞院には、ただ今の太政大臣の御娘、一条の后の宮の御妹、春宮の御叔母、代々の御覚え、内々の御有様も、華やかにいとめでたし。坊門には、式部卿の宮と聞こえし御娘ぞ、中には、我が御もてなしより外には心苦しかるべけれど、女君の、世に知らずめでたき、一人生み奉り給へりけるを、内に参らせて、ただ今の中宮と聞こえさせ給ふ。今上の一の宮さへ生まれさせ給ひて、勢ひ中々勝れてめでたく、行く末まで頼もしき御有様なり。築地一重を隔てつつ、うち通ひてぞ、殿は見奉り給ふ。
その頃、堀川大臣と申されて、関白であられたのは、一条院・当帝(今上天皇)と、同じ后の第五皇子でした。母后も、代々天皇の血筋でしたので、何にとりましても、並みの大臣と呼ばれるのも畏れ多いことでしたが、何の罪あってか、徒人になられて(臣籍降下)、故院(一条院)の遺言通り、今上天皇は、ただこの堀川大臣の思うままに世を任せられたので、堀川大臣は公私ともに栄えられました。二条堀川(現京都市中京区)あたりに四町の大殿を構え、それぞれ別々の、厳しく造った玉の台([りっぱな御殿])に、北の方三人を住まわせていました。堀川二町には、所縁ある、故先帝の妹と、前斎宮([伊勢神宮に奉仕した皇女また女王。伊勢大神宮斎王])が住んでおられました。洞院([仙洞]=[院御所])には、今の太政大臣の娘、一条院の后宮の妹、春宮の叔母が住んでいました、誰かれも代々天皇に大切にされて、内々の暮らしぶりも、たいそう華やかでした。坊門(門近く)には、式部卿の宮と呼ばれる人の娘が住んでいました、大殿では、三人の北の方ほど優遇されておらず心苦しいことでしたが、女君で、世にないほど美しい娘が、一人生まれて、内裏に参らせました、今の中宮でございます。この中宮に今上天皇の第一皇子が生まれて、たいそう栄えられて、行く末までも頼もしい限りでした。堀川大臣は築地([土塀])一重を隔てて住んでおりましたが、それぞれの許に通われて、世話をされていました。
(続く)