中務の御子の御上りの代はりに、かの御子の三つになり給ふ若君達、近衛殿の姫君の御腹ぞかし。七月二十七日に、将軍の宣旨蒙らせ給ひて、やがて四品し給ふ。経任の中納言を御使ひにて、東へ下されなどして、苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに、故承明門院の御跡、土御門万里の小路殿へ御移ろひありて後ぞ、院の上、御母准后なども参り、始めて御対面あり。さるべき人々も、参り仕うまつりなどして、世の常の御有様にはなりにけれど、建長四年、御年十一にて御下りありし後、今まで十五年がほど、賑ははしく、いみじうもて崇められさせ給ひて、由々しかりつる御住居に引き換へて、物淋しく心細うなど、思さるる折々もありけるにや、
虎とのみ もてなされしは 昔にて 今は鼠の あなう世の中
中務の皇子(宗尊親王)がお上りになられた代わりに、皇子の三つになられた若君達(惟康親王)、近衛殿(近衛兼経)の姫君(近衛宰子)の子でございました。七月二十七日に、将軍(鎌倉幕府第七代将軍)の宣旨を蒙られて、やがて四品(四位)になられました。経任中納言(中御門経任)をお使いにされて、東国へ下されて、謀反の嫌疑も晴れて、十月ばかりに、故承明門院(第八十二代後鳥羽天皇の妃、第八十三代土御門天皇の生母)がおられた、土御門万里小路殿へ移られた後に、院の上(第八十八代後嵯峨院)、母(近衛宰子)准后(平棟子。後嵯峨天皇典侍)なども参られて、はじめて対面がございました。さるべき人々も、参られました、世の常の有様でございましたが、建長四年(1252)、御年十一でお下りになられて、今まで十五年のほど、賑やかで、たいそう崇められ、厳しい住居に引き換えて、宗尊親王は物淋しく心細く、思われる折々もございましたか、
虎ともてなされたのは昔のこと。今は鼠となって世を嘆くのみぞ。
(続く)