また、その頃にや、秋の雨、日来降りて、いと所狭かりしに、たまたま雲間見えて、空の気色ものすごきほどに、一の院、新院、大宮院、東二条院など、皆一つ御方におはします。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候ひ給ふ。前の左の大臣実雄、久我大納言雅忠など、疎からぬ人々ばかりにて、大御酒参る。数多下り流れて、上下、少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御盃を賜はり給ひて、持ちながら、とばかり休らひて、「公相、官位ともに極め侍りぬ。中宮、さておはしませば、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華衰ふべからず、実兼も、怪しうは侍らぬ男なり。後ろめたくも思ひ侍らぬに、一つの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々、「何事にか」とおぼつかなく思す。左の大臣実雄は、中宮の御事かくのたまふを、いでやと、耳に留まりて、うち思さるらんかし。一の院、「何事にか」とのたまふに、しばしありて、「入道相国に、いかにも先立ちぬべき心地なんし侍る。『恨みの至りて恨めしきは、盛りにて親に先立つ恨み、悲しびの至りて悲しきは、老いて、子に後るるには過ぎず』とこそ、澄明に後れたる願文にも、書きて侍りしか」など申し給ひて、うち萎たれ給へば、皆、いと哀れに聞き思す。入道殿は、まして、墨染めの御袖濡らし給ひける、理なりかし。
また、その頃でしたか、秋の雨が、数日降り続いて、たいそう気が晴れない頃のこと、たまたま雲間日の光が見えて、空がすっかり晴れました、一の院(第八十八代後嵯峨院)、新院(第八十九代後深草院)、大宮院(後嵯峨天皇中宮、西園寺姞子。後深草天皇の生母)、東二条院(後深草天皇中宮、西園寺公子。西園寺姞子の同母妹)など、皆一つ所におられました。御前には太政大臣公相(西園寺公相。姞子・公子の兄)、常磐井入道殿実氏(西園寺実氏。公相・姞子・公子の父)もおられました。前の左大臣実雄(洞院実雄。実氏の弟)、久我大納言雅忠(源雅忠=久我雅忠)など、親しい人々ばかりで、酒を飲まれておいででした。盃が何度も廻らされて、上下ともに、少しくつろいでおられましたが、太政大臣(西園寺公相)が、本院(後嵯峨院)より盃を賜わって、持ちながら、しばらく口を閉ざして、「この公相、官位ともに極めましてございます。中宮(第九十代亀山天皇中宮、西園寺嬉子。西園寺公相の娘)、もおられますので、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華は衰えることはございません、実兼(西園寺実兼。公相の子)も、決して劣る者ではありません。何一つ不自由はございませんが、ただ一つの憂いが、心の底にございます」と申したので、人々は、「何事か」といぶかしみました。左大臣実雄(洞院実雄)は、中宮の皇子のことを申したので、何を申すのかと、耳に留まり、怒りを覚えたかも知れません(亀山天皇の皇后は、洞院実雄の娘、洞院佶子)。一院(後嵯峨院)が、「何事か」と申すと、しばらくあって、「入道相国(西園寺実氏)に、おそらく先立つのではないかと思っているのでございます。『恨めしき中の極みは、盛りで親に先立つ恨み、悲しみの中で最も悲しいことは、老いて、子に後れるに過ぎるものはございません』と、澄明(大江澄明)に後れた大江朝綱(平安中期の公卿)の願文にも、書いてございます」と申して、うなだれられたので、皆、かわいそうなことと思われました。入道殿(西園寺実氏)は、まして、墨染めの袖を濡らされるのも、道理でございました。
(続く)