また、その頃大風吹きて、人々の家々、損はれ失する事数知らぬ中に、明堂殿も転びぬ。この内には、木にて人形を作りて、宮殿を金にて造りて、入れたる宝あり。眼を当てては見ぬものなり。おのづからも誤りて見つる人は、目のつぶれけるぞ恐ろしき。陰陽寮の守護神の社も転びぬ。山の文殊楼、稲荷の中の宮なども、吹き損ひて、すべて、来し方行く末も例あり難き風なり。西国の方には、人の家を、さながら吹き上ぐれば、内なる人は、塵のやうに落ちて、死に失せなどしけるぞ、珍らかなる。あまりにかくおびただしき風なれば、御占行はれけるにも、「重き人の御慎み、軽からぬ」など奏しけり。果たしてその頃、西園寺の太政大臣公相悩ましくし給ふとて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、かしがましく響き罵りつれど、それも甲斐なくて、十月十二日失せ給ひぬ。入道殿を始め、思し歎く人々数知らず。中宮も、御服にて出で給ひぬ。北の方は、徳大寺の太政大臣実基の御娘なれど、この御腹には、更に御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ、女房の生み聞こえたれど、北の方の御子になして、男公達も、腹々に数多おはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。この大臣、入道殿よりは、少し情け後れ、いち早くなどおはしければ、心の底には、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。
また、その頃大風が吹いて、人々の家々が、壊され失うこと数知れぬ中に、明堂殿も壊れました。この内には、木で人形を作り、宮殿を金で造って、入れた宝物がございました。眼を当てて見てはならないものでございました。誤って見た人は、目がつぶれると申す恐ろしいものでございました。陰陽寮の守護神の社(陰陽寮の鎮守)も壊されました。山(比叡山)の文殊楼、稲荷の中宮なども、吹き壊されて、すべてにおきまして、過去未来に例のない大風でございました。西国の方では、人の家を、吹き上げて、内にいた人は、塵のように落ちて、死に失せるなど、この世のものとも思えないことでございました。あまりに激しい風でしたので、御占がございましたが、「重鎮の慎みを、軽んじられませぬよう」などと奏されました。果たしてその頃、西園寺の太政大臣公相(西園寺公相)が病いになられて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、やかましいほどでございましたが、それも甲斐なく、十月十二日にお亡くなりになられました。入道殿(西園寺公経)をはじめ、嘆き悲しむ人々は数知れませんでした。中宮(第九十代亀山天皇中宮、西園寺嬉子)も、喪服でお出になられました。北の方は、徳大寺の太政大臣実基(徳大寺実基)の娘(徳大寺教子)でございましたが、この妻には、子はいませんでした。中宮が、少納言と呼んて、召し使う、女房が生んだという女房を、北の方の子にして、男公達も、腹々に数多くおられましたが、いずれも北の方の子になされました。大臣(西園寺公相)は、入道殿(西園寺公経)よりは、少し情け少なく、人と張り合う性格でございましたので、心の底では、それほどに悲しむ人もおられなかったとか。
(続く)