皇后宮は、日に添へて、御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せ給へるを、御門をはじめ奉りて、誰も誰も思し嘆きつるに、今年またその御気色あれば、いかがと思し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたく罵る。こたみだに、げにまたうち外しては、いかさまにせん」と、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。ほど近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中響きて、天下の人高きも下れるも、司あるほどのは参りこみてひしめき立つに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもを立て給ひ、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、優れて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿に籠められけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、まことにや侍りけん。
皇后宮(第九十代亀山天皇皇后、洞院佶子)は、日に添えて、亀山天皇の寵愛を受けられるようになりました。姫宮(亀山天皇の第一皇女、睍子内親王)・若宮(亀山天皇の第一皇子、知仁親王)がお生まれになられましたが、すぐにお亡くなりになられたので、亀山天皇をはじめ、誰もかれもお嘆きになられておられましたが、この年また身篭られたので、ご心配になられて、山々寺々ではお祈りが頻繁に執り行われました。この度、また早世になられては、どうなることか」と、大臣(洞院実雄)・母北の方(藤原栄子)も安心して寝てもいられず、心配は限りございませんでした。出産が近付かれて、皇后(洞院佶子)は土御門殿の、承明門院(源在子。第八十二代後鳥羽天皇の妃で第八十三代土御門天皇の生母)の跡へ移られました。世の中は騒いで、天下の人は身分の高い者も下れる者も、官職のある者は参られてひしめき立ち、殿の内の人々は、まして、心も上の空に、慌ただしく走り回っておりました。大臣(洞院実雄)は、限りなく願を立てられて、賀茂の社(上賀茂神社・下鴨神社)にも、調度の中で、優れて家宝と思われる手箱に、后の宮(佶子)が自ら書かれた願文を入れられて、神殿([本殿])に納められました。その願文には、「たとえこの子ばかりであろうとも、この度は皇子をお授けくださいませ」と書かれたと聞いております。定かではございませんが。
(続く)