しかれば、惟仁の親王、御位に定まり、東宮に立たせ給ひけり。しかるに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に就き、そんゑ剣を振り給へば、菅丞霊を垂れ給ふ」とぞ申しける。これに依りて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひたる。御子も、都へ御帰りなくして、比叡山の麓小野と言ふ所に閉ぢ籠らせ給ひける。頃は神無月末つ方、雪げの空の嵐にさえ、時雨るる雲の絶え間なく、都に行き交ふ人も稀なりけり。況や小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れなり。
こうして、惟仁親王が、帝位を継ぐことに定まり、東宮に立たれました。そして、延暦寺の大衆([僧])の僉議にも、「恵亮が脳を砕けば、次弟(惟仁親王)位に就き、そんゑ(尊意。第十三代天台座主)が剣を振れば、菅丞(菅原道真)の霊が顕れる」と申しました。そして、惟喬親王の持僧真済僧正は、嘆きのあまり亡くなりました。惟喬親王も、都へ帰ることなく、比叡山の麓小野(現滋賀県大津市小野)という所に幽居されました。頃は神無月([陰暦十月])の末頃、雪混じりの空の嵐にも、時雨れる雲は絶え間なく、都に行き交う人も稀でした。申すまでもなく小野の住まいの侘しさは、思い遣られて哀れでした。
(続く)