「それ、迷ひの前の是非は、是非ともに非なり。夢の内の有無は、有無ともに無なり。しかれば、我らが身の有様、あればあるが間なり。夢の浮き世に、何をか現と定むべき。しかれば、刹那の栄華にも、心を延ぶる理を思へば、無為の快楽に同じ。いざや、最後の眺めして、しばしの思ひを慰まん」とて、兄弟ともに庭に下りて、植ゑ置きし千草の栄えたるを見るにも、名残りぞ惜しかりける。「心のあらば、草も木も、如何で哀れを知らざるべき」と、かなたこなたに休らひけり。これによそへ、古き歌を見るに、
故郷の 花のもの言ふ 世なりせば 如何に昔の 事を問はまし
今更思ひ出でられて、情けを残し、哀れを掛けずと言ふ事なし。
十郎(曽我祐成)は「どうであれ、迷いを前にして是非([正しいことと正しくないこと。 また、正しいかどうかということ])を論じたところで、是であろうが非であろうがともに結局非に違いなし。夢の中の有無を、ありやなしやと申したところで所詮は無でしかない。ならば、我らの身の有様も、あると思うばかりのことよ。夢のような浮き世に、何か確かなものがあると言うのか。そう思えば、刹那([仏教の時間の概念の一。最小単位])の栄華にも、満足するのも道理と思えば、無為([仏教の絶対的真理])の快楽([浄土の安楽])もまた同じこと。どうだ、最後の眺めをして、しばらく心を慰ませようではないか」と申して、兄弟(曽我祐成・時致)ともに庭に下りて、植えた千草([いろいろな秋の草。やちぐさ])の盛りを見るにも、名残り惜しく思われるのでした。「心があれば、草も木も、我らの悲しみを知らぬはなかろうに」と申して、あちらこちらでしばし佇みました。これを思うに、古い歌が、
もし故郷のこの花が口を聞けたのなら、昔のことをあれやこれやと訊ねてみたいものよ。(『後拾遺和歌集』)
今更に思い出されるのでした、情けを残し、悲しみを留めずにはいられませんでした。
(続く)