哀れ、実に今を限りと申すならば、如何安かるべきを、申す事ならねば、忍びの涙に目も暮れて、暫くは物も言はざりけり。なほも、「許す」とのたまはねば、十郎、怒りて見ばやと思ひて、持ちたる扇をさつと開き、大きに目を見出だし、「とてもかくても、生き甲斐なき冠者、ありても何にか遭ふべき。御前に召し出だし、細首打ち落として、見参に入れん」と、大声を捧げ、座敷を立つ。女房たち驚き、「いかにや」とて、取り付く袖に引かれて、板敷荒く踏み鳴らし、怒りければ、母も驚き、すがり付き、「物に狂ふか、や、殿。身貧にして、思ふ事叶はねばとて、現在の弟の首を切る事やある。それほどまでは思はぬぞ。しばし、や、殿」とて、取り付き給ふ。
どうすればよい、今を限りと申すことができたなら、容易いものを、話すことはできない、忍びの涙に目も暮れて、しばらく何も言えませんでした。それでも、母は「許します」と申すことなく、十郎(曽我祐成)は、声を荒げてみようと、持った扇をさっと開き、目を大きく見開いて、「お許しなければ、生き甲斐もない冠者ならば、この世にいなくとも同じこと。御前に呼んで、細首打ち落として、見参に入れましょうぞ」と、大声上げて、座敷を立ちました。女房たちは驚き、「どうなされましたや」と言って、取り付く袖を引いたまま、板敷を荒く踏み鳴らし、怒ると、母も驚き、十郎(祐成)にすがり付いて、「物に狂ったか、待ちなさい、殿よ。身貧にして、思うこと叶わずとて、実の弟の首を切ることがありますか。それほどまでに憎んではいません。しばし止めなさい、や、殿」と申して、袖に取り付きました。
(続く)