法師になりぬれば、上臈も下臈も、乞食頭陀をしても苦しからず。また、下臈なれども、智恵才覚あれば、法師に誹りなし。十郎だにも、男になせし事の悔しくて、入道せよかしと思うたるところに、口惜しの有様や。『善を見ては喜び、悪を見ては驚け』とこそいへ。哀れ、河津殿ほど、罪深き人はなし。後世弔ふべき人々は、御敵とて滅び果てぬ。たまたま持ちたる子どもさへ、孝養すべき者一人もなし。まことに末の絶えなば、まのあたりの本領を余所に見んも悲しくて、もしやと思ふ頼みに、兄は男になしたれども、親の跡をこそ継がざらめ、名をさへ変へて、曽我の十郎なんどと言はるるも、口惜しし。
法師になれば、上臈([身分の高い者])も下臈も同じ、乞食([僧侶が人家の門前に立ち、食を求めながら行脚して修行すること])頭陀([食を乞いながら野宿などして各地を巡り歩いて修行すること])することも恥ではありません。また、たとえ下臈でも、智恵才覚があれば、法師を卑下する者はおりません。十郎(曽我祐成)でさえ、男になしたことを後悔して、入道させようと思うていましたのに、何とも残念なことです。『他の善を見てはこれをよろこび、悪を見てはこれに驚け』と申します。ああ、河津殿(河津祐泰)ほど、罪深い人はおりません。後世を弔うべき人々は、(源頼朝の)敵となって滅び果てました。たまたま持つ子どもさえも、孝養する者は一人もいなくなりました。まこと子孫が絶えてしまえば、たちまち本領([代々領有している私領])も他人の物になると思えば悲しくて、もしやと思い頼みにして、兄は男になしましたが、親の跡を継がずとも、せめての名をさえも変えて、曽我十郎と呼ばれるのを、口惜しく思っていますのに。
(続く)